個人的に、とても気に入ったアルメニア系キリスト教会。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、ゾロアスター教…、いろんな教会やモスクを見てきましたが、好みの上位に来るのはキリスト教のことが多いです。
気に入ったわりにはアバウトな説明で恐縮ですが、アルメニアにイエスの教えを広めに来たグレゴリオさんという聖職者がいて、王様の命令で、いろんな拷問をしてもピンピンしていたので、8年目くらいに王様がキリスト教に改宗したという、どっちもようやるな的由来が壁に書かれています。
※ ご一緒された方からの情報によりますと、このグレゴリオさんにちなんで後々、ローマ法王の名前へと受け継がれていったのだそうです。
併設の資料館には、オスマン・トルコによるアルメニア人虐殺の記録もあります。そういう経緯があって、トルコはEUに入れてもらえないんだそうです。国際問題は一筋縄ではいきませんが、末代までの恥になるようなことはなすべきでないですね。
拷問がまったく効果をなさなかったグレゴリオさんの逸話から『愛』について考えてみました。
「いわしの頭も信心から」の “宗教系” の方は『愛』という言葉を好みます。『愛』の中でも『無条件の愛』を貴ぶようです。私は人間社会に『無条件の愛』が存在する余地はないと思っています。
『愛』と呼ぶ以上『愛』を定義するものがあります。でないと、何のことを『愛』と指し示しているのかすら分かりません。『無私で行なう』とか『相手のためを願う』とか『自分と他者を分け隔てしない』とか、何らかの条件が『愛』の定義づけとして予めあることを意味しています。
『それは愛からの行為ではありません』と言う人がいるとするならば、『愛』と『愛でないもの』の基準が、その発言者の内部に存在していることが推察されます。このことからも『愛』と『条件』は切っても切れない関係にある、ということが分かります。
『無条件の』という言葉を『愛』にかかっていく言葉としてではなく『自分の状況や振り向ける対象を選り好みしない』という意味に捉えてみましょう。
『愛』を定義づける条件はいろいろあるけれど、定義づけされた『愛』を、自分の状況がどうあるかを問わず、すべての人に振り向ける。これって、努力次第でできそうな気もするじゃないですか。しかしやはり無理なのですよ。人間は判断する生き物だからです。
また『愛と呼ばれるもの』が具体的な成果を織り込んだ何かであるとするならば、生じた結果が、その行為が『愛』であったかどうかを決めます。『愛とは何かを求めるものではない』とするならば、結果がどの方向に転がっていこうと『その人の愛』とは無関係なので、『愛』を『そのときの私にとって正しい(妥当な/適切な)行為を私は選択した』という表現に変換することができます。
『そのときの私にとって』と表現せざるを得ない時点で、状況や相手による判断基準があることを意味しているので、やはり『この愛』にも何がしかの条件が付いていることが分かります。
人間は、みな『私にとって正しい(妥当な/適切な)選択をした』と思っている(あるいは思っていたい)生き物です。ならば少数の悪意を除き、世の中には『愛』が溢れているはずです。これも『愛』のひとつの定義づけに過ぎませんが、『愛』はすべてを上手く循環させていく原動力なのかと思いきや、「実際のところ、人間にとっての『愛』は、そこまでの成果を上げてはいない」ということに気づきます。
「人間社会に『無条件の愛』が存在する余地はない」と書いたのは、個体性のある『愛』は『無条件』にはなり得ないという意味です。アルメニアに生まれたグルジェフの言葉を借りて言えば「人間機械は、予め定めた『愛』という定義に基づいた『愛』を受動的な反応として行なうことしかできない」。
「自分が無であることを自覚すること、つまり自分が完全に絶対的に機械的であり、全く救われようがないこと」を観念としてではなく、具体的にイヤと言うほど思い知るところから覚醒の道がスタートする、とグルジェフは述べています。
冒頭で紹介したグレゴリオさんの逸話。キリスト教の正当性を必ずしも証明するものではなく「グレゴリオ」という個体性を超えたときに、その存在は超人的な生き方を示すことができるということを示すものだと私は捉えます。
道で転んだ人に対し、進んで手を差し伸べるのが『愛』か、あえて差し伸べないのが『愛』か、『私』が手を差し伸べるのは愛ではないが『イエス・キリスト』ならば転んだ人を踏んづけて通り過ぎるのも愛なのか。個体性を超えない限り、その答えはやってきません。