

さて[明治期の日本とガージャール朝期のイランとの関係]という章以降は、割かれているページ数がぐっと増えていきます。
それを端的にまとめるのは難儀なわけですが、とりあえずやってみましょう。
当時の日本とイラン:ロシアとの関係が課題だった両国
明治維新後の日本
当時の日本の動きは以下の枠内のようです。
イランと良好な関係を積極的に築こうとした背景には “アジアにおける地盤の強化/勢力の拡大” “ロシアの影響力の排除” があったように感じられます。
<ポイント>
- 明治期以前の鎖国政策下においては、日本とイランという国家の間に包括的関与と呼べるものはなかった
- 1868年、明治維新により実権が天皇へと返還された。そして日清戦争、日露戦争で勝利を収めるまでに国力を高めた
- 政治的、経済的な拡張の可能性を探るため、明治政府は多様な人材(公使/商人/旅行家/探検家/測量士/研究者/留学生など)をイランへも送り出した ⇒ 外務省の吉田正春、参謀本部の古川宣誉と5人の商人からなる遣外使節団をイラン&オスマン帝国へ派遣したのが一例。中央アジアに調査のために派遣された人物もいる
- 日本は商業的には、生糸とお茶の販路を拡大したいと考えていた
- 政治的には、アジアにおいてロシアに対抗できる影響力を拡大したいと考えていた
- 日清戦争後には台湾総督部職員によるアヘン供給エリアの調査が行われ、日露戦争の準備としてロシアの状況(道路建設の計画)を把握するために留学生という身分でイランへ赴いた者もいる
ガージャール朝期のイラン
当時のイランはガージャール王朝でした。
国の概要
ガージャール朝は1779年に創始され、1796年にアフシャール朝に代わってイランを支配。創始者アーガー・ムハンマドがシャーとして戴冠(1796年以前からシャーではあったようなのですが)。トゥルクマーン系ガージャール遊牧部族連合によるイスラム王朝でした。
ロシア帝国がジョージアへと南下しつつあった時代で、ガージャール朝の支配領域は現在のイラン/アゼルバイジャン/アルメニア/ジョージア/トルクメニスタンに属する地域辺り。首都はテヘランに置いていました。
このトゥルクマーン系部族連合は、サファヴィー朝期にはナゴルノ・カラバフ自治州(アゼルバイジャン西部の地域。ソ連時代の自治州。2023年9月までは “ナゴルノ・カラバフ共和国”)のカラバフ、同朝の末期にはアスタラーバード(イランのゴレスターン州ゴレスターン郡の都市)を拠点としていたそうです。
日本との関わり
<ポイント>
- ナーセロッディン・シャー(1848-1896/第4代シャー)の在位中に、日本の公使(フランス滞在公使の鮫島尚信/ロシア駐在公使の榎本武揚)が接触。両国は友好的な関係を築こうとしたが、イラン宮廷内の保守派官僚の反対によって日本に最恵国待遇が与えられることはなかった(日本のほうが “ずいぶんと格下” “どこの馬の骨” との認識だったのかもしれない)
- ナーセロッディン・シャーはイランの近代化政策のためにヨーロッパを巡幸、かつて領地だった地域を一時的ではあったものの取り戻すなど、ガージャール朝の王のなかでは有能だったとも評される(後に暗殺された)
- イランからも、ミールザー・イブラーヒーム・サハーフ・バーシーが日本を訪れた。彼は宝石商でもあったが近代的な自由主義者であり、イランにおける最初の映画興行主としても知られている。彼は来日のたびに、貴族のために日本の工芸品をイランへと持ち帰った
- 1903年、首相を辞任したばかりのミールザー・アリー・アスガル・ハーン(アターバク)ら一行は、メッカ巡礼を表向きの目的として日本にも立ち寄った。真の目的はアジアの「第三国」との関係構築によって、イランにおけるイギリスとロシアの影響力を弱める可能性を探るためであった
日露戦争が日本とイランにもたらしたもの
本書には次のように書かれていました。
[日本]
戦勝国となったことによって、軍国主義がさらに高まり「アジアの指導者、ひいては世界のリーダー」へという野望に目が眩むようになった
[イラン]
- 日露戦争におけるロシアの敗北により、イランでは立憲革命運動(憲法の制定と議会開設を求めた民衆蜂起)の士気が高揚。名もなきアジアの一国家(日本)が世界最強の部類に入るロシアに勝利したことに希望を見出し、ひとつのモデルとして参考にした
- しかし、ロシアの弱体化という機会を活かすことができず(イラン側の準備不足による)ロシアはイランへの干渉をむしろ強めた
日本は西アジア最初の使節団をオスマン帝国のイスタンブールに置き、イランに開設したのは第一次世界大戦後のこと。
当時の外務省事務官である野田良治をリーダーとして調査を行い、イランに貿易代表部を設置して外交関係を樹立。日本が工業や経済において発展的であったこと、戦勝国であったことから、イランはその提案を歓迎したとのことです。
イラン旅行を思い出しつつ、歴史を概観
自分にしては「めっちゃガッツリ」書いてしまいましたが、私は歴史と地理が大の苦手。ふぅ~、頑張りました。
ガージャール朝の首都はテヘラン。同王朝やテヘラン等にまつわる思い出を振り返ることにします。
シーラーズのマスジェデ・ナスィーロル・モルク(Nasir al-Mulk Mosque)もガージャール朝の建造物のようです。
ゴレスタン宮殿
今回のイラン戦争で爆撃を受け、一部破壊されたと聞いています。桁違いのキラキラっぷりに恍惚の異世界へと突入してしまう世界遺産。
前身の建造物はサファヴィー朝時代のもの。拡張と増築を繰り返し、19世紀に王家の住居兼ガージャール朝の政庁となってゴージャスさに拍車がかかりました。

アーブギーネ博物館
ガージャール朝最後の王アフマド・シャー時代およびパフラーヴィー朝時代に首相を務めたアフマド・ガヴァームの邸宅だったところにあります。
19世紀のイランとヨーロッパの建築様式の融合によるものだそうで、装飾も美しい建物。一時期、エジプト大使館でした。こんなところで仕事ができたなんてうらやましい!

マスジェデ・ナスィーロル・モルク
シーラーズにあります。
ガージャール朝の有力な貴族ミルーザー・ハサン・アリの資金によって 1876年から1888年にかけて建てられました。現在も Nasir ol Molk(ナーセル・オル・モルク)寄付財団によって管理されています。
ローズモスクとも呼ばれ、うっとりするような光と色が見事です。

