イスラム教とゾロアスター教~イラン・アゼルバイジャンから帰国しました

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私の経験においては、イランは政治的、宗教的ドンパチがなければ、むしろ治安のよい部類に入ります。暗さも重さもない。人々は抑圧された面はあっても陽気で親切。歌うこと、踊ることが好き。

こちらはイラン、ヤズドのゾロアスター教(拝火教)寺院。2500年以上燃え続けている「聖なる火」。

ゾロアスター教が、イスラム教よりも優れているのは、「信仰の自由」「改宗の自由」を認めているところだと、私は思います。

イスラム教は「改宗」を認めていないし、親がイスラム教を信仰しているならば、その子どもも自動的にイスラム教徒という枠組みに入ります。イスラム教徒と結婚するには、非イスラム教徒のほうがイスラム教に改宗しなければならない。したがって、イスラム教徒の人口は増えることはあっても、減ることがない仕組みになっています。

実際にはイスラム教徒という枠組みにあっても、その神や教えを信じていない人たちが存在するようで、さもありなん、という感じです。

今回の旅行に当たり、トランスコーカサスの生んだ神秘思想家グルジェフという人を知りました。帰国してから関連書を若干読みました(彼の著作を読破するのは、かなりの苦行)。

グルジェフは言います。「人間は反応するだけの機械である」と。

自分を観察してみましょう。理性も感情も肉体も、受動的に反応しているだけです。そのパターンが各人で、またそのときどきの個人において異なるので、人間が「多様性に溢れた自由意思をもつ存在」に見えます。

何かが刺激となって快や不快、好きや嫌い、怒りや喜びなどの感情や肉体的な感覚が起き、何かが刺激としてあるから考え(思考)という活動が生まれているだけで、人間は自発的に何かを生み出すことがない。そこには統合されていない、機械的な反応(パターン)があるだけです(人間という機械は、自分のことを統合された存在だと思っているかもしれないけれど、実際には統合されていなません)。

何かを創造しているつもりであっても、それは反応としての創造であって、真に能動的で自発的な創造を行なうことができないのが人間という機械。

だから「ゾロアスター教は改宗の自由を認めているから、イスラム教より自由度が高くていいね」と感じたとしても、実は信仰に関しても、受動的反応から離れた自由意思など持ちえないのです。機械という「制限された機能」の範疇での「一見自由であるように見える意思」が刺激を基に受動的に形作られているだけ。

元々ちっぽけな人間なのですが、旅行に出ると、そのちっぽけさをいろんな局面で突き付けられますね。

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