最近、散発的に観たのがNetflixオリジナルドラマの「The OA」。面白かったのですが、残念ながらパート2で制作打ち切りとなりました。
ドラマに出てくる問題児スティーブが高校教師の中年女性を “BBA” と呼んでいて、思わず笑ってしまいます。“BBA(ビービーエー)” とは、日本で使われる “BBA” ではなく “ベティ・ブロデリック=アレン“ という名前の略でした。このドラマでは不思議な踊り(?)も見られます。笑うところでないにも関わらず、可笑しくて笑わずにはいられません。
7年3カ月11日前に行方不明になった盲目の女性プレーリーがある日、目が見えるようになって生還するところからストーリーが始まります。そして “OA(オーエー)” と名乗ります。
彼女は5人の仲間を得ます。問題児スティーブ、優等生フレンチ、スティーブの友人ジェシー、LGBTのバックといった高校生たちと風変りな教師ベティ(BBA)です。
“OA(オーエー)” は7年もの間、ニューヨークで出会ったハップによって監禁されていたと語ります。医師を自称するハップは、監禁した者たちを臨死状態へと追いやって観察する実験をしていました。ホーマー、スコット、レイチェル、レナータという監禁されている人たちとともに “OA(オーエー)” は脱出を計画しました。そんな経緯を5人の仲間に少しずつシェアしていく “OA(オーエー)” 。「えええー!そうなのー!?」みたいな感じで話の虜になっていきますが、「はぁ↓」みたいに信頼が揺らぐ出来事があり5人は疎遠に。そして不思議なダンスに唖然としたところで、パート2へと続きます。
パート2が本編に相当すると思います。パート1は初見では引き込まれますが、後から考えるとパート2の長い前説みたいなものです。
このドラマは “多次元宇宙” を舞台としています。
- あるひとつの次元の何かが変わったり、その次元を超えたりすると、ほかの次元のドラマや設定も変わる
- ほかの次元の記憶を持っていることもあるし、持っていない場合もある(登場人物たちは潜在意識や集合意識を共有してパラレルな世界を生きている)
- 場面設定、人物設定、人間関係は次元ごとに異なるものの、縁のある者同士が集合的に関わり合ってドラマを編んでいる
- 他の次元へと意図的に移行するには、記号・象徴・動き・場所といった、“封印を解く鍵” と “それに合う鍵穴” に相当する、隠された叡智を体得する必要がある
このドラマの主人公たちは “多次元宇宙” を舞台に異なる名前、異なる設定を複層的に生きています。「いろんな次元をパラレルに生きているなんてスゴイ」とも言えますが、“多次元宇宙” 自体が壮大なカルマ(因と果)の仕組みになっています。
このドラマを観ていると「私」という存在は縦軸(時間や次元)と横軸(同一時間や次元における広がり)の交差ポイントに過ぎないことに気づきます。そして「自分はつながりのなかで生きているに過ぎず、自分自身が『完全に独立的』かつ『自発的』にできることなど何もない」という理解に至ります。
「私」にできることが「ある」と言えなくもないですが、独立した存在としての「個の私」が行なえる自発的な努力や頑張りというものはありません。「私」がしていることは、あくまでも縦軸と横軸のつながりのなかでの受動的な反応や対応に過ぎません。しかし人間はなぜか「私という個」が主体的に何かを行なっている気分でいます。
キリストが磔刑になった十字架。縦軸(時間や次元)と横軸(同一時間や次元における広がり)の交わりにピンで留められているのが人間であり、そのありよう自体が逃れられないカルマを示しているように感じます。縦のつながり、横のつながり、どちらからも自由であることへの道をイエス・キリストは磔刑からの復活で示さんとしたのではと、このドラマを観て思いました。なお、私はキリスト教徒ではありません。
このドラマでは “OA(オーエー)” たちが「転移に成功した!」と喜びますが “多次元宇宙” をトランスファーして自分の設定が違ったものになったとしても自動的に何かが解決することはありません。やっぱり因果は巡るのです。
予定ではパート5(シーズン5)までの制作だったので、パート2で打ち切りとなったことで大きく広げた風呂敷の伏線回収が中途半端に終わった感があります。そうは言ってもトータルでは楽しめる作品ですし、終わり方も「へ~っ」(そう来るか)という感じです。心霊・オカルト要素を排してSF路線に構成を絞ったほうがよかったのかもしれません。世界観としては面白いのですけれどね。