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「アウトランダー」で主人公クレアの18世紀における夫ジェイミーは魅力的な男性。
逞しくて強靭な戦士。勇気があり、信義に篤く、大切な人たちを命がけで助けます。好みは分かれるとしてもルックスがよく、少年のように純粋で愛する人に一途。その一方で適度に粗野でシンプル、愛嬌もあります。
総じてリーダーとしても、夫としても理想的なバランスの人として描かれています。演じているのはサム・ヒューアン。当人の印象はタフで筋骨隆々のジェイミーと異なり、元々の体の線が細く、表情からも繊細な感じを受けるので、役者というのはスゴイなあと思います。
クレアの18世紀の夫ジェイミーと20世紀の夫フランクを比較してみましょう。
フランクは歴史学者。“俯瞰する者(知的活動主体の者)” 。お尋ね者のときも、スコットランドの領主のときも、闇稼業が密輸のエジンバラの印刷屋のときも、常に現場の第一線で体を張って戦い、愛する人たちを守ろうとしたジェイミーと異なり、知的考察を重ねる大学の研究者でありマインド主導。ジェイミーが “直接触れる者(体を使う現場主義の者)” だとすれば、フランクは “俯瞰する者(知的活動主体の者)” と表現できます。
“直接触れる者” と “俯瞰する者”、どちらの価値や評価が高くなるかは時代によって異なります。世の中が比較的安定しており、頭脳労働によって多くの財を生み出すスタイルが定着した現在においては “俯瞰する者(知的活動主体の者)” の価値や評価が相対的に上がります。
日がなPCに向かって何かしているか、現場の人たちに講釈を垂れているか、みたいな層が影響力をもち、財を成すようになります。
一方で動乱や戦いの日々、何事につけ安定しない世の中では “直接触れる者” のほうが頼りになります。生きることに直結したアクションを起こすことができるからです。安定した世の中、「頭脳労働=生きること」になる時代、「バーチャルな世界も現実のうち」という今のような世情では忘れられがちですが、具体的なことに対峙し、具体的なことを通し、具体的なことと対話できる人こそが「深い何かを知る」近道にあるのではないかと思います。
たとえば車検やら定期点検やらで、カーディーラーの営業マンと話してもつまらないですが、メカニックの人と会話するのは楽しいです。日々モノに対峙し、モノと対話している人の話には深みが感じられます。車という商材から最大限の利益を上げようという方向にばかり意識が向いている営業マンのあり方は私の心に触れません。その点がすごく気になるので、今回の車検から近所の整備工場に出すことにしました。
メカニックは “直接触れる者(体を使う現場主義の者)” であり、営業マンは “俯瞰する人(知的活動主体の者)”。ただしモノと日々対話しているだけではオタクの域を出ず、“直接触れる” ことを通して “俯瞰” に至り、さらに普遍性のある原理へとつながることで “直接の経験” と “俯瞰” とを統合したあり方へと昇華します。なかには “直接の体験や経験に触れなくても” 普遍的原理とつながる直観知を得ている “俯瞰者” もいます。救われないのは “ 直観知を伴わない俯瞰者” です。
話を「アウトランダー」に戻しますと、クレアが、先に結婚していた20世紀のフランクよりも18世紀のジェイミーに魅かれるようになったのは、ジェイミーが “直接触れる者” だったからだと思います。“直接触れる者” として生き、クレアという女性にも、生身の人間として “直接触れ続けた” 結果、彼女のハートの中心を掴むに至ったのです。
フランクは “直観知を伴わない俯瞰者” であったため、自分を既に愛していない、20世紀に戻ってきたクレアを愛し続けようと努力したものの、ジェイミーを含めた三者の関係性に対する深い洞察や理解に至ることができませんでした。 このドラマのシーズン3辺りまでを観て感じたのはそんなことです。