日本を出発して既に30時間が過ぎ、言うまでもなく疲れていますが、ドバイ発のフライドバイ機にてボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエヴォに到着。その足で国際空港至近のトンネル博物館(MEMORIAL COMPLEX TUNNEL)へ。「トンネル・オブ・ホープ(希望のトンネル)」とも呼ばれているようですね。
1991年のユーゴスラビア解体に伴い、1992年ボスニア・ヘルツェゴビナは独立を宣言。同地に住むボシュニャク人(ムスリム人)とクロアチア人は独立を支持しましたが、セルビア人はそれをよしとしませんでした。国内のセルビア人勢力によって設立されたスルプスカ共和国は軍事行動を開始、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争に発展しました。
独立を支持したボシュニャク人とクロアチア人はいろんな点で足並みが揃わず、ユーゴスラビア人民軍(VRS)の支援を受けたセルビア人勢力が優勢となり、首都サラエヴォを包囲します。時期としては1992~1996年のこと。
1992年5月、サラエヴォは完全に封鎖されます。セルビア人勢力による兵糧攻めによって餓死者、武力衝突によって戦死者が続出。1993年、民家から空港(国連軍のために開放された)の下を通る800mのトンネルを掘ることを決め、4カ月と4日で作り上げました。そのトンネルを使い、国連軍の援助も受けて物資や兵士、怪我人や民間人などを行き来させました。
家屋の壁には、たくさんの銃弾の跡。人々が命を落とした地面には、花のような色付けがされていました。当時住んでいた人たちは存命で、現在は別の場所に住んでいるそうです。





1993年はバブルが弾けた後とはいえ、日本は平和。私自身は20代最後の頃で、自分のことばかり考えて能天気に暮らしていました。
トンネル博物館に展示されている白黒の写真を見るとベトナム戦争辺りを思い出す世代でもあるのですが(子どもの頃に朝日新聞の写真報道をよく見ていたから)ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は1990年代の出来事。今や戦争や紛争とは “自分の知らない世界” とし、“知らないふりをできる年代” ではなくなりました。





ミレニアムを前にしてボスニア・ヘルツェゴビナの人たちは大変な思いをしていたわけで「自分がその立場だったら」と考えると、自分の根性のなさ/悩みの底の浅さ/不甲斐なさを痛感します。
当地の男女は老いも若きも身長が高く、成人女性は大抵170㎝以上、男性は2m近くあります。トンネルの高さは日本人の背丈にはまあまあ馴染みますが、彼らにとっては低いので身をかがめて歩くのが常だったようです。
そんな時代を知らなければ、ただただ平和に見える今。隣接地ではグループがバーベキューを楽しんでいました。


