“九死に一生を得る”とは?山岳ドキュメンタリー「MERU/メルー」

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ルクラ~シャンポチェのエベレスト街道トレッキングならば、したことがあります。その体験を踏まえると、私は登山向きではありません。心臓も足も肺も、中級以上の登山に適応できるようなスペックでないのです。しかし山の清々しさ、神々しさを知っているので、たまに山岳ものを観たくなります。

「MERU/メルー」は、インドのヒマラヤ山脈にあるメルー峰へ挑んだ3人のクライマー(コンラッド・アンカー、ジミー・チン、レナン・オズターク)の記録映画。シェルパに荷物を任せて山を登っていくタイプの登山ではなく、屹立する90度前後の雪や岩の壁を伝ってのクライミングを行います。頂上まで登るのに必要な物資やギアは自力で運び、それらの総重量は約100㎏だそうです。

翼を広げた白い神のような姿かたちをしたメルー。直接体験した日には “山が成す大自然” から離れた人生など考えられなくなることでしょう。

“2008年9月の撤退”と“決意”

2008年9月、この3人のメンバーでの1回目の挑戦(コンラッドは2003年に登頂に失敗している)。インドのニューデリーから車で標高3000mにあるヒンドゥー教の聖地ガンゴトリへ。その後、徒歩でメルーのシャークスフィン(鮫のヒレ)の麓へ。メルーは難易度が高いことで有名で、登頂に成功した登山家はいませんでした。ヒマラヤで最も難しい登山ルートなのだそうです。

聖なるガンジス川の源流があるこの山は、宇宙の中心とされている。天国と地上と地獄が、ひとつに絡み合う場所。シャークスフィンは高さ460m。標高6100mにある花崗岩の刃。世界最高峰のクライマーたちが、のべ20回以上も登頂に失敗したルート。メルーが難しいのは複数の要素が混在するから。氷雪壁も岩壁も登れて、高度にも強い必要がある。ビッグウォールクライミングの能力も求められる。

「空へ」著者:ジョン・クラカワー

1996年のエベレスト大量遭難事故について書いた、ジョン・クラカワーの著書「空へ」を私は持っています。大変興味深い本でした。大量遭難事故を映画化した「エベレスト」も以前視聴しています。このたび、同作でジョン・クラカワーを演じていたマイケル・ケリーが、ジョン本人にきちんと似ていたという事実を確認しました(配役にあたり、似ている/似ていないを一応は考慮していたのでしょう)。

さて、3人のクライマーはベースキャンプを標高4400mの地点に置きました。3人のうち、レナンは若くて経験が浅かったようですが、彼のフリーソロ(命綱なしで岩壁に対して1人で行うクライミング)の映像を見たコンラッドは、大いに関心をもって彼と組むようになりました。

レナンは砂漠で独り、野宿同然の生活を送っていて、絵を描くことも好きだったようです。家をもたないクライマーは珍しくないそうですが、登攀途中で過ごす、快適さのカケラもない壁に宙ぶらりんのテント(ポータレッジ)に比較したら、地上での野宿は十分に心地良いあり方と想像します。一方、コンラッドとジミーは共に登山をするようになって7年(当時)の間柄でした。

コンラッドは「山に登る理由は、景色を見たいからだ」と言います。宙づりテントで休むことのみならず、テントを張らずに雪上でそのまま眠るトップクライマーたちの人間離れっぷりには驚かされます。

2008年の挑戦では、嵐が来て4日間、崖に宙ぶらりんのテント内に足止めを食らいます。その後も彼らは粘り強く頂を目指しました。しかし17日目、頂を目前にした標高6100m地点で食料が尽き、安全確保が難しいとの判断により撤退を余儀なくされます。

困難な挑戦の記録が残っているのは、ジミーとレナンが高所での撮影を仕事としていたからです。トップクライマーですら、なかなか辿り着くことのできない地点で、彼らは垂れたロープに身体を固定するなどして撮影したようです(ほかにもスタッフはいたと思われます)。

3人が登頂に失敗した後も、いろんなクライマーがメルーのシャークスフィン(鮫のヒレ)に挑戦。その1人が、スロベニアのシルボ・カロでした。コンラッドは「彼なら登頂できる。あの山に決着をつけてくれれば、自分はもう行かなくていい」と考えました。しかしカロは失敗、コンラッドは再びメルーへ向かうことを決めます。

半年前に起きた大事故:レナンの大怪我

大きな事故が、メルー再挑戦の半年前に起こります。2011年のことです。ジミーとレナンは、世界的なスノーボーダー2人の滑降を撮影していました。苦手なスキーでカメラを任せられたレナンは崖から転落。開放性陥没骨折により頭蓋骨の内部に空気が入った状態となりました。また頸椎2カ所と環椎外側塊も骨折。脳への血流が半分になりました。医者によれば、9割の人が一生歩行できなくなるレベルの重傷、頭部損傷が数ミリずれていたら植物状態になっていたとのことです。

高度が上がり、酸素が少なくなると、健常な人であっても脳の働きが悪くなります(「エベレスト」を観ると、その感じがよく分かる)。普段は冴えている人も判断力が鈍ったり、おかしなことを言い出したりします。レナンは脳への血流が通常の半分になり、平地でさえも以前の生活に戻れるかを危ぶまれる状態でした。

私だったら前途をかなり悲観します。山のことなど「もう無理」と頭から消し去り、とりあえず困難少なく日常生活を送れるレベルを目指してリハビリに励むのが関の山。

ところが砂漠の野宿者レナンは常人と異なります。彼は「メルーへ行く」つもりで、リハビリとトレーニングを開始します。そのメルーへの出発は「5年後」ではなく「5カ月後」なのです。いちいち自分と比較する必要はない気もしますが、私だったら五体満足でピンピンしていたとしても、せいぜい行けてベースキャンプの4400m地点まで。彼の努力が半端なかったことも大きなポイントではありますが、天賦のポテンシャルには目を見張るものがあります。

コンラッドもジミーも「9月にメルーへ行く」と言うレナンに対し、「山登りはもう無理だ」とは言えません。回復困難な怪我を負った彼の、生きる目的を奪うわけにはいかないからです。レナンは寝た切りの病院のベッドでも、登頂成功へのプランを練っていました。家族や友人に心配をかけることについて大いに悩みながらも、チームへの復帰を切望し、過酷なトレーニングをこなしていきます。

半年前に起きた大事故:雪崩に巻き込まれたジミー

「レナンが事故に遭ったのは自分の責任だ」と考えたジミーは、自分に負けないために、レナンの事故の4日後にスノーボーダーたちの待つ撮影現場へと戻ります。そして滅多に起きることのない、巨大な雪崩に巻き込まれます。

車と同じくらいの大きさの塊から成る流れに飲み込まれ、時速130キロ近い速さで600m落下。ジミーは身体がちぎれて死ぬことを覚悟しました。しかし途中で雪崩の速度が低下し、不思議な雪の流れが彼の身体を下から持ちあげたといいます。ジミーは雪崩の流れから飛び出た状態となり、雪に埋まったものの生還します。

スノーボーダーたちが山を下っていくと、見た事もないほど巨大な雪崩跡の先端にジミーが座っていました。彼らは言います。「奇跡だ。神様が何かしたのかもな」

ジミーは気持ちの整理のために休みを取り、拾った命で何をするかを考えます。九死に一生を得たことで自己信頼に向かうのかと思いきや、彼は自己不信に陥り、しばらくの間は精神的に不調だったようです。

ジミーは2008年の撤退の段階では、メルーへの再挑戦を考えていませんでした。しかしチーム全体の安全を考慮した場合、レナンを加えるべきでないという周囲の強固な反対に屈することなく、彼とのメルー行きを決意します。完全な回復を期待できない者を命がけの登頂チームに加える、今までのコンラッドとジミーだったら決してなかった “尋常ではない判断” でした。

“九死に一生を得る”とは

選択なき死への道~『エベレスト 3D』 」でも書いたのですが、私自身は「運命としての死を前にしたとき、すべての選択は自動的に死に向かう」と考えています。そして「選択なき死への道~ツキのある/なし」に書いたように、1996年のエベレスト大量遭難事故で助かっている、ガイドのアナトリ・ブクレーエフは約1年後の1997年冬のアンナプルナで、シェルパ頭のロブサン・ザンブーは1年も経たない1996年秋のエベレストで、どちらも雪崩により死んでいます。

私は死に関しては運命論者なので、一個人が死をコントロールすることはできないと思っています。レナンやジミーは自身の死をコントロールすることができないし、奇跡(と感じられる事象)とはコントロールすることを放棄したときに起きるのではないでしょうか。

“奇跡とはコントロールすることを放棄したときに起きる”と書きましたが、“逃げずに、すべてを受け入れたときに期せずして起きる” に等しいかもしれません。

ジミーはレナンに対して罪悪感があったはず。そこから逃げることなく、すべてを請け負いました。レナンは怪我についてジミーを責めてはいません。怪我を受け入れ、リハビリとトレーニングによって克服しようとし、後遺症があっても夢を諦めませんでした。

リーダー的存在のコンラッドがメルー登頂にこだわったのには理由がありました。登山の師マグス(故人)との夢を叶えたかったのです。コンラッドはかつての相棒アレックスを雪崩で失っており、その後は “生き残った者がもつ罪悪感” とともに自分の殻にこもるようになりました。

故人アレックスの妻ジェニーとサポートしあい、それがきっかけで彼女と結婚。驚くのは、アレックスには家と家族(妻と息子3人)があったけれど、ジェニーと結婚するまでコンラッドは車上生活だったということです。独り者のクライマーにとって、家とは不要なものなのでしょうか(頻繁に山へ行っていて在宅時間が短ければ、家は持つだけ不経済という気はする)。

2011年9月の再挑戦

2011年9月、再び車で標高3000mにあるヒンドゥー教の聖地ガンゴトリへ。その後、ベースキャンプからメルー登頂を目指します。

高度が上がっていき、脳の血流が健常時の半分になっているレナンは軽い脳梗塞を起こし、会話ができなくなって混乱します。下山するのも困難な状況で、登頂を諦めることも考えるコンラッドとジミー。しかし、レナンに下りる気持ちはありませんでした。「下りたら自分を許せなくなる。チームの足を引っ張りたくなかった」と彼は言っています。

私はクライミングをしないので知らなかったのですが、チームで登る順番を交替するもののようです。コンラッドとジミーは、レナンが先頭になる番を替わろうとしましたが、レナンは当初の予定通りに登ります。「途中から、なぜだかラクになり、気づいたら自分の担当を終えていた」と彼は述べています。

7日目の難所はオーバーハンギングしている “トランプの家(岩の塊が不安定な岩壁)” 。クライミングとは、がさつであってもダメですね。私だったら岩を叩いて割りまくり、重量に持ちこたえられない岩壁を崩し、チームもろとも落下します。岩の塊は1つ5トンあるそうです。 “トランプの家(岩の塊が不安定な岩壁)” のルートはジミーがリードし、6時間かけて登りました。

標高6100m地点に到達。気温は零下30℃ほど。目前に迫った頂上は極めて危険かつ難易度の高い箇所です。2008年に撤退した尾根に到達し、最初に誰が登頂するかを決めねばなりません。コンラッドはジミーを指名します。そして3人はメルー初の登頂者となります。

最後に

大袈裟なアクションやアピールもなく、感動的、情緒的というより、クールなタッチのドキュメンタリーなのですが、彼らの内面にある忍耐と克己心を感じて心動かされました。エンディングの歌が素晴らしいです。もちろん大自然の映像も。

同時に「これは帰路が大変そうだ」「自分だったら、ヘリコプターに迎えにきてもらいたい」と思わずにおれない、自分の “怠け者” 加減に驚かされます。

例えばエベレストの登頂でも、無事生還してこそ称えられます。登頂したものの無事下山しない者は祝福されません。学校の先生がよく「家に着くまでが遠足」と言いますが、その言葉の発祥は登山にあるのかもしれません(単なる “気を緩めず、無事帰宅することを促す戒め” だとは思いますが)。

またスポンサーなのでしょう。着用しているものが「ザ・ノース・フェイス」でした。次に何か買うことがあれば、私も「ザ・ノース・フェイス」にしてみようかな。

今住んでいる家について。どのように処分するか、私も終活として考えねばなりません。固定資産税等の問題がクリアされれば、家はある時点で解体してしまい、トレーラーハウス暮らしというのもいいかもしれません。

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