コメディ基調の映画です。原題は “Bikur Ha-Tizmoret”。
エジプトからやってきた8人編成のアレキサンドリア警察楽団が空港のロータリーで迎えを待っています。文化交流のために、招かれてイスラエルにやってきたのでした。しかし迎えのバスはやってきません。
バスはやってこないものの、きちんと制服を着用し、きちんとした姿勢でロータリーに立ち、「写真を撮らせて欲しい」と言う人のためにきちんと整列し、真面目にコトに対処します。しかしちっとも楽しそうではないうえに、カメラと自分たちの間に清掃係が無神経に立ち入って写り込む等のハプニングが続き “きちんと真面目” であるがゆえの可笑しさに笑いがこみ上げます。同時にもの悲しさも感じさせます。
いつまで経っても迎えがこないことについてエジプト大使館に助けを求めることを進言するメンバーのシモン(クラリネット奏者で作曲家)。しかし団長のトゥフィークは「わが楽団ぱ25年間、自力でやってきた。それを変えるつもりはない」と受け入れません。市役所に問い合わせの電話をしても「おかしな人」と思われるのか、氏名と楽団名を名乗っている間に電話を切られてしまいます。
団長らはカーレド(女好きのチャラいイケメンバイオリニスト)を案内所へ差し向けます。彼らが向かうべきは ペタハ・ティクヴァ(Petah Tikva/テルアビブの東にある都市)でしたが、バスを降りたところは “ベイト・ハティクヴァ”。ただっぴろい砂漠のなかにある辺境の街でした。行先を間違えたことに気付いたものの時すでに遅し。その日のバスは終わっていて街には宿泊施設もなく一行は途方に暮れます。
街の食堂の美しい女主人ディナの仕切りにより、楽団員のうち3人(シモン、カマル、ほか1人)は失業中のイツェルの家、2人(団長とカーレド)は女主人の家、残り3人は冴えない若い男パピと食堂に泊まることになります。
具体的には書きませんが、映画の見どころはここからです。
カーレドを除き、お堅いエジプトの警察官たちは招かれた先でもお通夜状態。しかし一晩をともに過ごすことになったエジプト人と田舎町のイスラエル人は重苦しい空気のなかで少しずつ語り始め、互いを知っていきます。軟派なカーレドも、奥手のパピに実践的な恋愛指南を施します。互いの私的な部分に立ち入ることを許し合うことで、互いにもっと親近感を抱きます。
それぞれの人物がかくある事情や背景を互いに理解し、素朴な意見・感想を口にすることで、それまでの人生の見え方やこれからの人生が変わったり、頑なだった心が柔らかくなったりもします。楽団のメンバーたちの演奏にも変化が顕れます。
招かれた先で音楽を演奏することも “文化交流” のひとつには違いありませんが、ハプニングを受け入れて正直で素朴な自分になることが価値ある人的交流につながると同時に、広い意味での “文化交流” になるんだなと感じた作品です。中途半端に知っている間柄よりも、今日まで知り合いではなかった人に対してのほうが率直に気持ちを表現し、過去の体験をシェアできる面もあることでしょう。
「かつてエジプトの警察音楽隊がイスラエルへ来た。覚えている国民は少ない。大したことじゃなかった」
映画冒頭部分より
冒頭のテロップが示す通り、ストーリーに大きな仕掛けはありません。しかし出来事や気持ちをシェアすることの大切さを再確認できます。
この映画で食堂の美しき女主人を演じたロニット・エルカベッツは私と同い年ですが、2016年にガンで亡くなっています。自分があと10年生きると仮定すると、本来優先順位の低いはずのことに時間や手間を割いていて、一番したいことや大切なことを後回しにしている感があります。私に限らず、人間は5番目か6番目辺りに位置づけられることに力を注いで振り回され、1番に位置付けていることを「いつかやろう」と放置しがちです。そんな人生を見直そうと思いました。
[ロケ地]イスラエル(ネゲブ砂漠、エルハム)
エルハムはベエル・シェバとミツペ・ラモンの中間辺りにある町です。ネゲブ砂漠といい、基本砂漠地での撮影だったようです。