「立ち去った女(原題 “Ang Babaeng Humayo” )」は、ラヴ・ディアス監督・脚本・撮影・編集による2016年のフィリピン映画。第73回ヴェネツィア国際映画祭のコンペティション部門で上映され、最高賞である金獅子賞を獲得したそうです。
3時間48分と長めの白黒映像作品ですが、この監督は10時間近い作品もいくつか制作しているようで、「2時間程度に収めよう」等の前提をもたない人なのかもしれません。
初回、私は動画を一時停止しながら、いろんな仕事や用事も挟みながら断続的に観ました。「これといった盛り上がりがあるわけでなく、長いな(いわゆる商業映画に比較すれば)」と思ったものの、その後再び観たくなり、2回、3回、4回…と繰り返し観ています。
説明的な描写を最小限に留め、ただ写しているだけ。そういった映像には、多面的に人間を映し出す魅力があります。事前の計画に基づいて咲かされる大輪の花でなく、期せずして思いも寄らぬところに咲く花々を観させてもらっている感じです。
ストーリーはいたってシンプル
かつて小学校の教師だったホラシアは、身に覚えのない罪で投獄され、30年の歳月を刑務所で過ごしてきた。ある日、同じ受刑者でホラシアの親友ペトラが思いがけない告白をする。ホラシアが犯人とされた殺人事件の真犯人はペトラ、そして彼女に殺人を指示し、ホラシアに罪を着せた黒幕は、ホラシアのかつての恋人ロドリゴだというのだ。ペトラは罪を告白後、自殺。釈放されたホラシアは家に戻るが、一家は離散し息子は行方不明、夫はすでに亡くなっていた。家族を失い、人生を壊されたホラシアは、自分を陥れた男ロドリゴを追って復讐の旅に出る。
Amazon.co.jp 解説より
1997年6月30日辺りから始まる、フィリピンの話です。
冤罪をかけられた主人公ホラシア・ソモロストロは、かつては小学校の教師で、獄中で勉強を教えたり、弱者をいたわったりと親切で優しい人柄。映画のタイトルは「立ち去った女」ですが、私だったら「あの優しい人」にします。あまりに直球で面白味がないのですが。
冤罪が明らかとなって釈放された後、自分を陥れた男ロドリゴ・トリニダッドへの復讐を果たすため、彼の居所を探し、名を変えて島へ渡ります。ロドリゴは、ホラシアのかつての恋人であり、貧富の差が激しいフィリピンにおいて大変裕福な男です。
バロット(孵化直前のアヒルの卵を加熱したゆで卵)を路上で売る男、知的障害がありそうな物乞いの女(歌声がとても魅力的)、ゲイと言えばゲイ、オカマと言えばオカマの男娼兼ダンサー(作中で日本語を話す場面があり、それなりの期間、実際に日本へ来たことがあるのかなと思わせる)など、社会の底辺の人たちと語り、笑い、哀れみを共有し、助けながら、ロドリゴを監視し、その日のために準備します。
フィリピンでは身代金目的の誘拐が頻発しており、大金持ちのロドリゴは自分の周辺に護衛を置いています。そういった当時のフィリピン情勢、代々続く貧困や格差などの社会問題についても盛り込まれています。
「写しているだけ」がもたらす、柔らかで多様な感覚
この映画には、いわゆるBGMがほぼ使われていません。カエルや虫の声、風の音、生活音、雑踏の音、音のない音などに聞き入ります。白黒映像なので、夜の屋外のシーンなどは特に、それが誰なのかが分かりづらいです。ひたすらに、ずーっと撮っていて(多分 “カメラの長回し” ってやつだと思います)せっかちな私は、初見では「このシーンでは何を言いたいのだろう?」と説明的な何かを求めたくなりました。「場面とは、ストーリーを説明するためのものである」という思い込みが強く、筋道立って腑に落ちないとすっきりしない “論理優勢の自分” が表れます。
「写しているだけ」に見えて、実は考え抜かれたカットになっていて、何度も観ているうちに無駄がないことに気付きます。むしろ細かな説明的要素を省いているように感じます。
したがって、よく分からないこともあります。例えば、冤罪被害者でロドリゴを追うホラシアの島での生活には、昼の顔と夜の顔がありました。彼女は日常生活で、それぞれを演じ分けていたのでしょうか。昼は食堂経営者、夜はヒットマン的装束でロドリゴの周辺を監視しています。食堂経営者として切り盛りするにも、夜の闇で監視を行うにも周囲からの信頼を得ることが必要で、時間がかかりそうです。慈しみ深い食堂経営者と、キャップを深く被った武闘派。昼と夜の顔は異なりますが、狭い地域社会では同一人物とすぐにバレるでしょうし、同一人物であると皆が知っているならば、昼と夜の顔を変えることをなぜしているのか、という部分が彼らの関心を引くはず(映画の最後の辺りからは、同一人物として二面性を意識することなく生活していた、島を去るときに同一人物であることを公にした、どちらの解釈もできます)。そういったところの経緯や説明は割愛されています。
主人公ホラシアは、基本的にインテリで上品で優しいので、昼の顔のほうが似つかわしいですが、夜の顔からも、それらを拭い去ることはできません。
この映画では、人々が笑ったり、泣いたり、怒ったり、わめいたり、歌ったり、踊ったり、その光景をただ映し出していきます。1シーンが長いので、演じている人たちも大変なのではと思ってしまいます(ここでも効率的に物事を進行させたい私のクセが出てきます)。
普段、起きていることを眺めているのに近い状況に観る者が置かれ、何か用意されたシナリオに沿って解釈や情動が起きるのではなく、観る者の自然な状態において、その内面にいろんな思いが起きるような作品になっています。
風が吹き、雨が降り、花が咲いては枯れ、何かが生まれ、そして死ぬ。日々、そういうことに気付き、何かに感じ入る人もいれば、そうでない人もいる。それに似て、受け手の側に多くが委ねられているのです。観るたびに感じることも、その深さも変わるので、繰り返し観たくなってしまうのだと思います。
“色のない世界” だからこそ感じるもの
本作は全編白黒映像。そのようにしたのには、いろんな理由があるのでしょう。私が感じたのは「白黒にすると、その人の実存のレベルが明確になる」ということです。
その人が「確かにそこに在る」のか否か、色を取り去ることで明確になります。色付きの世界では、まがい物であっても、色のお陰で本物に見えます。しかし白黒の世界では、本物だけが確実に「そこに在る」ことが分かります。
「確かにそこに在る」とは、“正しく在る” とか “間違った在り方をしている” とかを問うものではなく、正しかろうが、間違っていようが「間違いなく、その人自身がそこにいる」ことを指します。
それで言うと、ゲイ役のジョン・ロイド・クルズ(フィリピンでは非常に有名な俳優のようです)は特にすごいと思いました(パロット売りなども素晴らしい)。軽く表面的な演技は、白黒の世界では背景のなかへと沈み込みます。演技者としての真価が問われます。白と黒のふたつに分かれた世界では “実存の嘘・本当” がバレるのです。
この作品は光と闇、善と悪、罪と赦しといった二極を扱っているようですから、その点からも、色の付かないモノクロ映像がとても似つかわしいものとなっています。
ロドリゴへの復讐は間接的に遂げられますが、ホラシア(「あの優しい人」)の旅はマニラへと続きます。それは終わることがないのかもしれません。
最初のほうと最後のほうに、同じ詩文が朗読されます。「自分は不自由である」との思いに囚われた不遇な人たちに希望を見出すよう訴えかけるとともに、「願いが天に奪い取られたとしても、私には “しなくてはならないこと” がある」というホラシアの決意を示すもののように、私には感じられました。その後、彼女は希望を見出せない迷路を歩き続けます。
時間があれば視聴をオススメしたい作品です。