「歴史の歩みにおけるイランと日本」を読みつつイラン旅行を振り返る(2)サファヴィー朝と徳川幕府

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第2回は[徳川幕府とサファヴィー朝期におけるイラン・日本関係]。

第1回はサーサーン朝ペルシャと日本の関係でした。

「歴史の歩みにおけるイランと日本」を読みつつイラン旅行を振り返る(1)サーサーン朝と飛鳥時代の後期
第1回は[日本とイランの原初の交流-シルクロードから正倉院まで]です。

その後ウマイア朝(661~750年)、アッバース朝(750~1258年)、中央アジアにおいてモンゴル(イル=ハン朝)が隆盛を極めた13~14世紀、ティムール(ティムール朝)が隆盛を極めた14~15世紀などを経て、ウズベク族(遊牧民族)が定着しなかったイラン(イル=ハン国)各地で遊牧民や土着のイラン部族が自立。

16世紀の初めに、イラン北西部アゼルバイジャン地方を拠点に台頭した神秘主義(スーフィズム)教団における当時の指導者イスマーイール1世(1501-1524)が初代シャーとしてサファヴィー朝を建国。都をタブリーズに置いて(1501-1555)イラン全域を支配しました。

上位にシーア派をおく “十二イマーム派” を国教とし、シーア派の立場をとるイランの始まりです。

イスマーイール1世の息子タフマースブ1世(第2代シャー)の治世(1524-1576)では、彼のわずか10歳での即位などにより、領土統治が混乱状態に陥りました。成人後、彼は都をガズヴィーンに移します(1555-1598)。

タフマースブ1世の死後、後継者の座を争う動きがまたしても激化、一時は無政府状態に。

第5代シャーであるアッバース1世(1588-1629)の治世は繁栄し、イスファハン(「世界の半分」で名高い/直近の戦争において一部が破壊された)を首都に定めました(1598-1736)。

最近ホットな話題となっているホルムズ海峡は一時期ポルトガルの支配下にありましたが、アッバース1世が1622年に奪還。

黒海とカスピ海を結ぶカフカス山脈(コーカサス地方)の南側(アゼルバイジャン/アルメニア/ジョージア)もサファヴィー朝の領地でした。

述べていること/わかったこと

本書でイランと日本の関係の二つ目のステップとして言及されているのがサファヴィー朝期(1501~1722年 → 世界史の資料の多くに終わりは1736年と書いてあるのですが、本書では1722年になっている)。

日本においても有名なシャーはイスマーイール1世とアッバース1世であり、言い換えればそれ以外はパッとしないか無能だったわけです。そのひとりとして第8代シャーのソレイマーン(1666-1694)がいます。アッバース2世の息子にあたる彼は怠惰で無能、政治を大臣に丸投げして自堕落な日々を過ごしていたと言われます。

そのソレイマーンが、シャム(タイ)のナライ王の宮廷へ使節団を派遣した際の記録には、日本は「ジャパーン」という名称で記されています(航海は1685~1688年)。当時の将軍は「生類憐みの令」で有名な徳川綱吉でした。

「ジャパーン」とは「ニホン」「ニッポン」を中国人が発音した際の音に基づいており、イランでは「日出ずる国」や「ワクワクの島」という、Dreamyなイメージがもたれていたようです。

「1723年に徳川幕府8代将軍の吉宗がイラン産の血統書付きの馬を買い入れ、1725~1737年にかけて計28頭がイランから運ばれた」とあります。

サファヴィー朝の実質的な終了はアフガン軍による1722年のイスファハン陥落によってもたらされ、形式的な終了は1736年とされているようです。本書は前者をもってサファヴィー朝終焉との立場で書かれています。

1725~1737年辺りはサファヴィー朝の残党(末裔)、ロシア帝国、オスマン帝国、アフガン人が支配を巡って揉めていた時期に相当します。

『徳川吉宗』といえばドラマ「暴れん坊将軍」と俳優「松平健」。「ほかにもあるだろうが」と自分に突っ込みを入れますが、『彼がイランに対してペルシャ馬を所望された』と関連づけて覚えておくと忘れにくくなるという自分なりの工夫です。

[徳川時代(享保)の動き]

  • イランから日本へは皮革の輸出が盛んに行われていた
  • シャム(タイ)のアユタヤを経由してイスラム商人たちが来日していた
  • 日本人との意思疎通のため『訳詞長短話』という小辞典(ペルシア語⇔日本語)が編纂された

イラン旅行を思い出しつつ、歴史を概観

2018年の旅行で訪れた、サファヴィー朝期の建造物(イスファハン/アルダビール)について振り返ってみましょう。

サファヴィー朝アッバース1世の時代のタイル装飾の特徴として、青や黄色のかけらを組み合わせてモザイク模様を施す手法が挙げられます。

イスファハン

エマーム広場

エマーム広場は、アッバース1世により1598年頃から着工され、1617年くらいまでに現在に近い姿になりました(世界遺産)。※ アーリー・ガープー宮殿はティムール朝の建造物であり、サファヴィー朝とは直接の関係はありません。

エマーム広場とアーリー・ガープー宮殿
アーリー・ガープー宮殿の前は、かつては王の広場でポロの試合などが行われていました。広場を臨むスペースは佇むのに気分の良い場所です。

エマーム広場のバザール

アッバース1世のもとで繁栄したイスファハンは、富と文化の集積地であったことから「世界の半分」と表現され、バザールには世界中から数々の商品が集まりました。

バザールと職人街
エマーム広場をぐるっと囲むようにバザールがあります。職人さんたちが製作にいそしむ職人街もあります。ラクダの骨に描く細密画を買いました。

マスジェデ・シェイフ・ロトフォッラー

アッバース1世の命で、1601~1618年に建設された王専用のモスク。非常に美しい建物です。

王たちのプライベートなモスク、マスジェデ・シェイフ・ロトフォッラー
エマーム広場を囲むように、いろんな歴史的建造物があります。そのひとつがマスジェデ・シェイフ・ロトフォッラー。他人に姿を見せることなく礼拝に通うことができる構造になっています。

アルメニア地区のヴァーンク教会

「1605年創建、現在の建物は1655年に再建」ということで、“十二イマーム派” を国教とするサファヴィー朝とはあまり関係がなさそうに感じられますが「16~17世紀に、イスファハン造営を目的にアラス河畔(現在のアゼルバイジャンとイランとの国境付近)から動員されたアルメニア人のための教会。アッバース1世をはじめとするサファヴィー朝の歴代指導者は、彼らや彼らの信仰するアルメニア正教の保護に努めてきた」とのこと。

ヴァーンク教会のあるジョルファ地区には、アルメニア商人などが居住していました(現在もたぶんそうでしょう)。

アルメニア地区のヴァーンク教会はかなりオススメ
アルメニア人の多く居住するジョルファー地区にある、ヴァーンク教会はキリスト教の教会です。壁画が非常に素晴らしい。また併設の資料館にはいろいろと考えさせられました。

マスジェデ・エマーム

アッバース1世の命により1612年に着工、1630年に完成。ここでは貴重なモザイルタイルの修復風景を見学させていただきました。

マスジェデ・エマームでタイルモザイクの修復作業を見る
イスラム芸術の集大成と言われるマスジェデ・エマーム。一般非公開の修復作業を見せていただきました。

チェヘル・ソトゥーン庭園博物館

サファヴィー朝時代を代表する宮廷庭園はアッバース1世の命により造営され、1643年に完成。宮殿は1647年にアッパース2世によって建てられました。サファヴィー朝の宴や戦いの場面などが壁に描かれていました。しかし今回のイラン戦争で、その一部を破壊されたと報道されています。

チェヘル・ソトゥーン庭園博物館とチャイハネ
1647年にアッパース2世によって建てられた宮殿で、当時は柱はすべて鏡で覆われていたそうです。併設のチャイハネにも行きました。

ハージュー橋

アッバース2世によって17世紀半ばに建てられました。続く水不足により、訪れたときは既に川に水がありませんでした。

水のない川にかかるハージュー橋
ザーヤンデ川にはかつては常時水があったそうですが、今では枯れています。そこにかかっている橋は依然としてゴージャスです。

アルダビール

シェイフ・サフィーオッディーン廟(世界遺産)は、サファヴィー教団の教祖サフィー・アッディーン・イスハーク・アルダビーリーの霊廟として息子が建設。サファヴィー朝の時期を通じて増築され続けました。

アルダビール郊外のシェイフ・サフィーオッディーン廟はゴージャス&神秘的
イスラム教シーア派の神秘主義教団の祖であるシェイフ・サフィーオッディーンの霊廟。神秘主義だけに神秘的な佇まいでした。

おまけ

モスクで使われている模様にご関心があれば、この本はなかなか楽しいです。定規とコンパスがあれば引ける図形もあります。

「イスラム芸術の幾何学」(ダウド・サットン著/創元社)

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