亡霊の取りつく場所は部屋や家とは限らない。脳には現実の世界よりたくさんの回廊がある。一番恐ろしいのは自己に隠れた自己。部屋に潜む暗殺者は怖くない。
エミリー・ディキンソン(アメリカの詩人)
このようなテロップから物語が始まります。
19世紀のことです。若き医師サイモン・ジョーダンが、カナダにある懲治監を訪れます。その目的は、殺人罪で収容されているグレイス・マークスの報告書を作成することでした。マーガレット・アトウッドによる実話ベースの小説「またの名をグレイス」をドラマ化したもので、爆発的人気というわけではないものの隠れた名作と私は思っています。ドラマの原題は “Alias Grace” です。
アメリカの医師サイモンが、殺人罪で15年もの間キングストンに収監されているグレイスの話を聴く、という体裁をメインにストーリーは進みます。グレイスの語る過去の物語と、サイモンやグレイスにまつわる今の出来事が、ふたりの面接の合間合間に挿入されている感じです。
このドラマの語り部はグレイスです。模範囚として一日のうち短時間、懲治監長の家でメイドをしています。裁縫をしながら巧みな喩えで自分の過去と今を語ります。支援者たちは、医師の見立てをもらうことで彼女に赦免をもたらそうと考えていました。サイモンは、何度も話を聴くうちにグレイスの不思議な魅力の虜になっていきます。
グレイスの話すところによれば、彼女は少女の頃から苦労してきました。荒い気性の父親の事情で、アイルランド北部から、家族とともに船で8週間かけてカナダのトロントへ渡りました(日本語字幕は「北アイルランド」ですが、英語字幕では「the north of Ireland」となっています)。船上で母は死に、飲んだくれの父親の暴力にさらされます。グレイスは父親への怒りと恐怖を抑圧していました。「金を稼げ」と父親に言われ、住み込みのメイドとして働くことになります。
そこで先輩メイドで大の仲良しとなるメアリーと出会います。グレイスはメアリーを慕い、メアリーはグレイスに多大な影響を与えます。メアリーの存在が非常に大きかったので、グレイスはメアリーの人格(「これがメアリーだ」と思う生き物)を自分の内面に作り出します。メアリーは不幸な出来事を経て若くして死に、その件がグレイス内部に作り出されたメアリーという人格を強めます。男性に対する怒りと憎しみを抑圧せざるを得ない境遇に、依然としてグレイスはあり続けます。
他者の人格を内面に取り込み、制御不能なエネルギーを溜めていくさまが「ベイツ・モーテル」のノーマとノーマンの関係に似ています。
面接を繰り返すうち、医師サイモンは囚人グレイスに身も心も惹かれていきます。彼女との恋愛関係を妄想するようになります。一方で彼に宿を提供している、夫に逃げられた女性や懲治監長家の娘がサイモンに恋心を寄せます。
メアリーの死について大きな秘密を抱えているグレイスは、引き抜かれてほかの屋敷に移ります。そこで働くナンシーは、どことなくメアリーに似ていました。
主人のキニア、メイドのナンシー、使用人のマクダーモット。屋敷に出入りする少年ジェイミー。グレイスは、自分のこの先の人生に明るい展望をもてず、つくづく絶望して日々を送っています。
グレイスにそそのかされてナンシーとキニアを殺した、と供述する使用人マクダーモットから見たグレイスは、医師サイモンの前にいるグレイス、彼女の語る彼女自身とは違っていました。そんなとき、神経催眠術を使うことのできるデュポン博士が現れ、グレイスに公開で催眠術をかけます。
さて、真実はどこにあるのでしょう。医師サイモンの精神は壊れていきます。
他者によって不遇を味わい、そこで負った病相が他者を不幸にします。因果は巡りますが、回転する輪にグレイスはおらず、中心にある軸がグレイスだった、みたいなお話です。友人メアリーの人格とグレイスの人格が、完全に交代していたのかどうかには謎が残ります。