オスロのギャラリーに展示中だった大切な絵2点が盗まれるという災難に遭った画家のバルボラ・キシルコワ。犯人は2人組で主犯はカール・ベルティル。ノルウェーでは主犯のみが裁判で起訴されます。彼は繰り返し服役している人物でした。
バルボラが「なぜ盗んだの?」と尋ねるとカールは「キレイだから」と即答。しかし「絵はどこにあるの?」と問いただしても「覚えていない」としか答えません。何を思ったか彼女は「また会えるかしら?あなたの絵を描かせてほしい」と申し入れます。カールをはそれを受け入れ、被害者(描く側)と犯罪者(描かれる側)の奇妙な関係がスタートします。
作品制作の着眼点が興味深い
「画家と泥棒」(原題 “Kunstneren og tyven” )の監督ベンジャミン・リーは「絵画泥棒にはいつも興味が掻き立てられる。犯罪と芸術という正反対の性質が混在すると感じるからだろう。大きな文化資本が動き社会的な価値の高騰がみられる芸術産業と、“下層階級”の犯罪者の荒んだ人生が交わるとき。その明暗のコントラストに興味と疑問が湧き上がる」(MadeGood Films WEBサイトからの引用)と述べています。
そして実際に起きた絵画泥棒の数々をピックアップする過程で、バルボラとカールのケースに出会います。大いに関心をもった監督はふたりの記録を撮影することに決めます。
まずは『絵画泥棒』に着目して撮影しようという発想が独特で面白いと感じました。そして画家のバルボラがドキュメンタリー映画のために「あなたの絵を描かせてほしい」と言ったわけではない点も。彼女は裁判で対面した泥棒カールに惹かれ、彼を描くことで何かを掘り下げ、理解・表現を試みたかったのでしょう。
芸術と犯罪は似ている
芸術家や芸術もいろいろ、犯罪者や犯罪もいろいろ。したがって “健全な芸術産業に属する者 vs 荒んだ人生を送る犯罪者” というように “社会の成功者 vs 敗残者” の図式でふたりを捉えることはできません。
このドキュメンタリーに登場する画家バルボラと彼女の絵を盗んだ犯人カールは “社会経済” においては “生み出す者” と “奪う者” であり正反対かもしれません。しかし人間として正反対ではなく、むしろ似ているところが大いにあるのではと感じました。
カールはタトゥーで覆われた身体をもつ男。8歳のときに母が弟と妹を連れて去っています。孤独が彼の心を蝕み、無価値感に苛まれるようになります。18歳の頃から犯罪に手を染め、刑務所に何回か入っています。その一方で実は多才で有能。環境が違えばまったく別の人生を歩むこともできたでしょう。だからこそ評価されず才能を活かすことのできない人生に絶望していたのかもしれません。
一方、バルボラはチェコ出身のリアリズム画家。死に惹きつけられる少女時代をプラハで送り、重く深い作品を描いてきました。元恋人に自尊心を打ち砕かれ、カール同様に無価値感を植え付けられます。絵を描くことはライフワークであると同時に自己回復の一手段でもあったようです。
犯罪も芸術も魂の渇望から生まれます。そして前者は堕落、後者は昇華とみなされるという違いがあります。しかし、どちらも自分の何かをそぎ落とし、他者からは見えない痛みに自らの血を流す行為という共通点があります。芸術とは形を変えた犯罪であり、犯罪とは芸術になり損ねた苦悩であると言えるかもしれません。
苦しみのなかの美
映画内で、バルボラの描いたカールをモデルとした絵を見て、彼が堪らず嗚咽するシーンがあります。バルボラとカールは同じ質をもっているため、作品を通じて魂が共鳴したのだと思います。
「芸術とは何か」を定義することは簡単ではありません。彼は内面を突き動かすバルボラの絵に出会いました。見る者に対する揺さぶりや、そこに生まれる共鳴こそが芸術のもたらす恩恵なのではないかと思います。
カールはバルボラに「君は人の苦しみを『まあ素敵』と持って帰る」と言います。彼女は言います。苦しみのなかの美、それこそが価値ある芸術なのだと。
カールは犯罪を重ねた前科者ですが、その半生は苦しみのなかにありました。バルボラによる肖像画はそんな彼の苦しみと、そのなかで未だ生まれ出ることのない輝ける美を表現していました。ゆえに彼は感涙にむせんだのではないでしょうか。
カールの肖像画やその他の作品を通して発露する美は、彼女自身の苦しみのなかの美でもあります。
ノルウェー社会の寛容さ
カールは過去に何回か服役していますが、ドキュメンタリー映画のなかでも再び刑務所に入る展開を迎えます。ノルウェーの刑務所はホテルの部屋のように快適な造りです。トレーニングジムも整っています。さぞかし過ごしやすいことと思います。ノルウェーの刑務所は「人道的すぎる」としばしば言われます。
一般社会と変わらぬ快適さで生活費のことを考えずに過ごせるなら、一生刑務所にいてもいいと思ってしまいそうですが、どうなのでしょう。
ドキュメンタリーの終わりのほうでは大工のアルバイトをしているものの、それまでのカールに定まった仕事をしている雰囲気はありません。彼にはベリーショートの似合う恋人がいましたし、別れてからも学校の教頭を務める女性と出会い、交際します。新しい恋人はフィヨルドを一望できる大きな家をもっていてカールの経済力を頼りにする必要はなさそうです。
カール自身にあまり困窮している感じがない背景にはノルウェーの福祉制度が整っていることや、前科のある人たちに対して偏見をもたない風潮があるのかもしれません(後者については現地の状況がよく分かりません)。「この人をサポートしたい」と女性に思わせる何かをカールがもっている可能性は大いにあります。
むしろバルボラのほうが経済面で困窮していてアトリエの家賃を滞納し、お金がないためスーパーでの支払いもぎりぎりに抑える様子が映し出されます。現在のパートナーが経済面を助けているようです。
面白かったのはパートナーと通うカップルカウンセリングに文句を言うバルボラに対し、服役中にカウンセリングを受けていたカールが継続するよう励ますところ。バルボラとカールは恋人同士ではありませんが、むしろそういうふたりこそがソウルメイト、魂の親友であり、互いの成長を助け合うために出会ったのではと感じた作品です。