「ピーキー・ブラインダーズ」シーズン6、示唆に富んだ“有終の美”を飾る

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過去に書いた記事はこちら。

19世紀のバーミンガムがオシャレな「ピーキー・ブラインダーズ」は実在のギャングの話
19世紀から20世紀初頭にかけて実在したギャングのファミリーを題材にしたドラマ。映像と音楽がオシャレでストーリーも面白いです。

最終シーズンがリリースされた「ピーキー・ブラインダーズ」。少し前から仕事が忙しくなり、すぐには視聴できませんでした。

シェルビー家のドン、トミーを演じるキリアン・マーフィー。彼の出演した作品はいくつか観ています。独特な目の色だなあ、いい演技をするなあと思いはしても、カッコイイとは感じないのですが(単に好みの問題)「ピーキー・ブラインダーズ」のトミーはイイ男に見えます。

ユダヤ系ギャングのアルフィーを演じるトム・ハーディ。デビューしたてで、ぴちぴち肌が張っていた「バンド・オブ・ブラザーズ」の時期と比較すると、まだ40代であろうに既に初老の佇まいとなっており(役作りもあろうかと思います)人間の生というのは長いようで「光陰矢の如し」。

私はドラマ「ピーキー・ブラインダーズ」が好きです。しかしギャング間の抗争や政治思想面での対立には、ほとんど興味がありません。ピーキー・ブラインダーズが彼ら自身の大義に基づき、どこと手を組み、どことやり合ったとしても「はあ、そうですか」程度の関心です。

私にとって興味深く感じられるのは、ピーキー・ブラインダーズ、すなわちトミーたちシェルビー兄弟がジプシーの出自であるということ、その文化や血統(リネージ)の網のなかで、人生に起きる物事を体験し、解釈し、意思決定していくところです。貧しいジプシーの出であることが、彼らの制約だったりコンプレックスだったりするのですが、経済的に豊かになって社会的に認められたとしても、出自(彼らが今、かくある前提)から自由にはなれません。しかし、そのバックボーンこそが彼らに強みと個性(際立ったもの)をもたらします。

シーズン5からシーズン6への大まかな流れ

シーズン5で、アメリカへ渡って株取引などを任せられていた、トミーの従兄弟にあたるマイケル。彼はトミーの指示に従わず、シェルビー兄弟の会社に多大な経済的損失をもたらします。したがってマイケルは裏切り者の烙印を一旦押されます。ウォール街で失敗したマイケルは妻ジーナを伴って再びイギリスの地へ帰り、損失補てんと信頼回復のためにアヘンの密輸を任されます。一方で、シェルビー兄弟の末弟フィンは競馬のブックメーカーの仕事をしています。

新しい考えをもっているけれど、叩き上げでも、苦労して成り上がったわけでもないので、自分に甘く、ファミリー全体よりも自分の利益を重んずる傾向にあるマイケル。ありがちな若者の姿です。シーズン5の後半で、マイケルはトミーに対し、シェルビー家の稼業の世代交代を迫ります。

私は今や年寄りの部類に入るので「物事を俯瞰できない、経験値の低い、偉そうな若造ってイヤだねえ」とマイケルを見て思います。目端は利くかもしれないが、トミーとお前さんではかなり違うだろうと。低いところにいる者には、目前にある山がどのくらい高いかが分からないのですよ。

トミーの兄で直情的なアーサーは、マイケルの提案を受け入れ、リタイアしてもいいと考えているようです。組織の上位者であるにせよ、年を取ってからのギャング稼業は大変そうですし、その気持ちも分かります。しかしトミーはそれを受け入れません。引き際を知らないと言うか「さらに上へ向かって戦い続けねば」という強迫観念が非常に強いのが彼の特徴です。トミー自身が彼を逃げ場のないところへと追い詰めていきます。そうでないと周囲の人たちが従わないし、そういうリーダーシップを周囲が望んでいると思い込んでいます(やはり強迫観念です)。

シーズン6は、叔母ポリーの息子マイケル(新興勢力)とトミーたち(旧来の勢力)の対立が基軸となっています。シーズン5の終わりあたりの匂わせが、シーズン6で具体的に展開していきます。予知能力のあるポリーは「家族の中で戦いとなり、どちらかが死ぬ(There will be a war in this family and one of you will die.)」と告げています。

マイケルは、アメリカで出会ったジーナを妻に迎えています。ジーナ役は「クイーンズ・ギャンビット」で主役を務めたアニャ・テイラー=ジョイ。元々個性的な顔立ちなのでしょうが、シーズン6ではシーズン5にも増して、その個性を目立たせるメイクで登場し、夫マイケルの背後で糸を引き続けます。マイケルも相変わらずの野心家。生き馬の目を抜く世界を昇りつめてきたトミーたちは、シェルビー家の一員であるマイケルと連携はしますが、彼に全面的な信頼を寄せることが難しい状況になっています。

外側のストーリーと内側のストーリー

ポリー役ヘレン・マックロリーの死去に伴い、大幅に脚本が変更になったシーズン6。トミーによる「オズワルド・モーズリー暗殺計画」が失敗に終わり(シーズン5)、母ポリーを失うことになった従兄弟のマイケル(シーズン6)。マイケルはシェルビー家のドンであるトミーを倒す大義名分を得ます。

母ポリーの死はマイケルにとって大きな出来事ですが、シェルビー家やその関係者にとっても、彼女の存在と役割は非常に大きく、マイケルの傷心と同じくらい、またそれ以上の痛手です。トミーに裏切り者認定され、稼業の世代交代の提案を退けられた恨みがベースにあるマイケルは、“承認欲求が満たされなかった痛みを、母を失った恨みにすり替えようとしていますね臭” を漂わせつつ、トミーへの復讐を誓います。

シーズン6の外側のストーリーは「トミー VS マイケル」。いわば表面的な出来事です。靴も買えない家に生まれ、過酷なギャングの世界でゼロから頭角を現した男と生意気な若者(その妻ジーナはさらに策士でワル)。ポリーの生前の予言通り「家族のなかで戦いになり、どちらかが死ぬ」ことになります。

片や、内側のストーリーとは、安らぎや本来の自分の姿とは程遠い人生を送ってきたトミーの出自(ジプシーという血統)や命の出発点(生きる目的)への回帰だと私は思います。「俺に限界はない」とするトミーも、折に触れ「この仕事を終えたら辞める。これが最後の仕事だ。俺は変わりたい」と言うようになります。

徹底的にやらないと気が済まない、限界を超えようとする強迫性をもつトミーは、自分の人生の幕引きがどうあるべきか、どのような選択だったらありうるかを自分や神的存在に問います。死んだ最初の妻グレースの亡霊がたびたび彼にメッセージを伝えます。彼女は平安な死後の世界へとトミーを誘います。一方で現在の妻リジー(リアルな世界で生きている)はトミーに発破をかけますが、心身共にに追い込まれ、片時もリラックスできない彼の行く末を案じています。

ジプシーという出自&血統(リネージ)

死んだ叔母ポリーには予知能力、霊的能力がありました。トミーの娘ルビー(後妻リジーの子)も、次第に予知能力や透視能力を示し始めます。ざっと見たところでは、こういった特殊能力は女系で引き継がれるようです。

娘ルビーを病が襲い、トミーはジプシーのしきたりに則った、呪術的な禁忌を妻リジーに厳命します。シェルビー家の三男ジョン(故人)の妻エスメは別の血統のジプシー(リー家)出身でしたが、トミーはかけられた呪いを解くため、夢に現れたポリーのお告げに従い、移動生活を送っているエスメを探し出して力を借りようとします。しかし呪いを解く時間的猶予はなく、ルビーは7歳という幼さで早逝。娘を失ったトミーは、エスメによって、新たに息子デューク(母はジプシー)を得ることになります。息子デュークは、弟フィンよりも賢くて「使える」感じがします。

叔母のポリーも娘のルビーも葬送はジプシーの伝統に則ったものであり、そこにはジプシーとしての明確な世界観と、“この世ならぬもの” とのつながり方があります。それに比較すると、現代日本人は自身の血統(リネージ)への敬意が希薄で、伝統に対する理解が表面的です。それがある面で、現代日本人の生き方をも浅いものにしています。

さてトミーの母、祖父が自殺であることがトミーの知るところとなります。精神的に追い込まれるたびに、銃で自分を撃ち抜きたい衝動に憑りつかれてきたトミー。戦争によるPTSDもさることながら、シェルビー家が自殺家系でもあることが、彼の自殺願望の強さに関係しているのかもしれません。そんなとき、生前の娘ルビーを診ていたホルフォード医師から「検査の結果、結核腫であるから早急に診察を」という手紙を受け取ります。自ら死を選ばずとも、トミーには余命1年半の重篤な病があるらしいことが判明。亡き叔母ポリーに対し「やるだけのことをやる時間だけはくれ(Just give me enough time to do what I have to do.)」とトミーは呟きます。

トーマス・シェルビーを支える女性たち

ドラマを観るとき、主人公の異性関係や恋愛事情に、私はさほどの関心を持ちません。しかし「ピーキー・ブラインダーズ」に関しては違います。主人公トーマス・シェルビー(トミー)のみならず、このドラマでは女性が『男性の意思決定』に多大な影響力をもっている感じがします。ギャングのドラマですから、基本的には男性が意思決定を行い、彼らの決め事は絶対であり、女性はそれに従うという図式なのですが、深いところでは女性が男性に強烈な影響と方向性を与えているように感じられ、そこがまた興味深いです。

トミーは亡き叔母ポリーに問いかけて答えをもらおうとしますし、彼がギリギリの状態になると示唆を与えにくるのは亡き娘ルビー。妹のエイダには政治力と強さがあり、兄のアーサーより頼りになる面があります。最初の妻グレース、次の妻リジー、競走馬を所有する裕福な未亡人、労働組合の招集者ジェシーなど。これらの女性たちと関わることで、トミーは無形の富を得ています。やはり若かった頃のほうが純粋で勢いのある恋で、中年になるにつれ、マインド優勢の付き合い方にはなりますが、女性たちそれぞれとの関わりは彼の人生のなかで、男同士のドンパチと同じかそれ以上に重要な学びをもたらしています。トミーは自分のあり方を幸福とはみなしていないようですが、女性との出会いについては恵まれている感じがします。

トミーは呪縛から自由になれるのか

あることがきっかけとなり、後妻のリジーは残されたチャールズ(前妻グレースの息子)を連れて家を出ます。トミーはリジーを自由にし、結果としてトミーも自由の一部を手に入れます。

死の病に侵されていることはトミー本人と兄のアーサーしか知りません。「俺たちはずっと前から死んでいる。行先はどこでも、グラス片手に兄貴を待っている。経済的なことの始末をつけたら、俺は出て行く。一人がいい」とトミーはアーサーに語ります。労働者階級の公正な将来のための住宅建設を実現すること、ミクロン島(ドラマ内ではカナダと言っていますが、北米フランス領では?)へ行ってアヘンの代金を回収し、それを遺産としてシェルビー家に残すこと、それらが表と裏の最後の仕事であるとトミーは考えています。

トミーがミクロン島へ出かけている間に兄アーサーの命が狙われ、ミクロン島では従兄弟マイケルがトミー殺害の準備をしています。トミーは自分を死へと追いやる策略の全貌を知ることになります。仕掛けられていたのは、意外にも大きな網でした。

そして振り出しに戻ります。私は輪廻転生があると思っています。そういう者の視点からすると、肉体の死をもって振り出しに戻るか、生きたままで振り出しに戻るか、ふたつに大きな違いはないようにも思えます。ほかの記事でも何度か「別れはいいものだ」と書いてきましたが、やはり「別れは終わりであり、始まりでもある」。したがって、いいものです。条件が整うと「別れ(終わり)」が許されます。「別れ(終わり)」のなかにも「始まり」と同じくらいの完全性を見るべきです。闘病を公にすることなくポリー役を演じ続けたという、ヘレン・マックロリーさんのご冥福をお祈りいたします。

「限界のない男」の限界超えの人生。各シーズン6エピソードからなり、ほどよいまとまり感、挿入されている音楽も相変わらず超かっこよく、「ピーキー・ブラインダーズ」はやはりとっても心に残るドラマなのでした。

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