“心の劇場” と書くと、なぜか “花王 愛の劇場” を思い出します。昔の話です。
さて通常、人間の感じ方/判断/予測/推察は脳内で情報処理されており、つながっている回路をルーティンのように信号が走ることにより、その人に特徴的な反応が起きます。
そのパターン(回路のルーティン)には人それぞれの傾向があり、それを性格や性向、タイプ、個性などと呼びます。性格や性向、タイプ、個性には生来的な部分と後天的な部分があります。
今回取り上げるふたつの映画は、その後天的な部分について、ある意味でいかに人間が病的であるか/反応が固定化された状態で生きているかを見せてくれます。
映画「ゲーム」とは
1997年のデヴィッド・フィンチャー監督作品で、マイケル・ダグラスやショーン・ペンなどの大御所が出演。テイストとしては「ブラック・ミラー」にありそうな感じです(「ブラック・ミラー」のほうが10年以上、後の作品です。したがって「ブラック・ミラー」の一部に「ゲーム」に似た要素があると言うべきかもしれません)。デヴィッド・フィンチャーは映画「ゾディアック」の監督もしています。
ニコラス(マイケル・ダグラス)は48歳の誕生日に、弟コンラッド(ショーン・ペン)から風変りなプレゼントを受け取ります。ニコラスは成功した投資家、コンラッドはよく言うと自由人(作家か何か?)、もっと言えば社会からのはみ出し者という風情です。コンラッドからのプレゼントとは “人生が一変するような体験ができる” というCRS社主催のゲームへの招待でした。彼らの父は48歳で自殺しています。亡き父は資産家であったようです。
経済的成功者にありがちな冷淡さ、傲慢さをもつ投資家ニコラス。妻とは別れ、大豪邸に使用人を配置して暮らしています。本来ならば、乗り気でないものは即座に切って捨てる性格なのですが、ほかならぬ弟の持ち込んだプレゼントだったので、体験サービスを提供しているCRS社にコンタクトを取ります。
長時間に亘り各種のテストを受けたニコラスですが、CRSからは「残念ながら不合格」の連絡を受けます。しかし、そのとき既に “人生が一変するような体験” がスタートしていたのでした。豪邸に戻ると、地面には人間大のピエロの人形がうつぶせに倒れており、口元のスカーフを引き出すと “CRS” の鍵が現れます。そして、おかしなことが次々に起こり始めます。
行く先々のあらゆる局面で窮地に陥り、命を落としそうな目に遭い、すべてのお金を失い、既知の人たちを含め、出会う人々を信じていいのかどうかが分からなくなっていく主人公ニコラス。ニコラスの推測や判断が正しいのか、ほかの登場人物の言っていることが正しいのか、視聴者も徐々に分からなくなっていき、脳内が混乱していきます。しかし崖っぷちのニコラスは “自分の判断” と “自分以外の人たちの証言や主張” のどちらかを「正しいもの」として選択せねばなりません。生きるか死ぬかの瀬戸際に追い込まれているのですから。
何を信じればいいのか混乱し、心身ともに予測不能なストレス下に置かれたニコラスに変化が生じます。それまでずっと他者を見下し、偉そうな物言いをしてきたエゴ、自尊心、アイデンティティが崩壊に向かうのです。ニコラスのエゴは抵抗しますが、今まで “ニコラス” を “ニコラス” たらしめていたアイデンティティを自ら放棄・破壊しなくてはならない状況に迫られます。
自分だけを信じてきた男が、“自分” という守りたかった最大の拠り所を放り投げ、周囲に身を任せてバンジージャンプをしなくてはならなくなります。
ニコラスは身を任せて行き着くところへ行くしかないようです。逃げようとしても、どこかへ逃げているつもりでも、結局のところ逃げ場はどこにもないことを身をもって知ります。「ゲーム」はニコラスを解放してくれません。
映画「THE GUILTY/ギルティ」とは
私が先に観たのはオリジナルの「THE GUILTY/ギルティ」(デンマーク作品)ではなく、ジェイク・ギレンホール主演のリメイク版。ジェイク・ギレンホールは、「ゲーム」のデヴィッド・フィンチャー監督による「ゾディアック」にも出演していました。実に多様な役柄をこなします。
映画の冒頭のテロップです。
真理は汝を自由にする
ヨハネによる福音書
全編を通じて姿を見せるのは、緊急通報指令室(911)で働く10名程度(うち3~4名を除き、ボカシが入っていて顔すら判別できない)。映る場面は、緊急指令室、トイレ、廊下くらいです。登場人物のほとんどが電話を通じての声だけの出演。あのイーサン・ホーク(巡査部長ビル・ミラー役)さえも姿を現わすことがありません。
ドラマは、緊急通報指令室のジョー・ベイラー(ジェイク・ギレンホール)の担当する緊急通話、関連部署とのやりとり、別居中の妻とのやりとりをベースに展開していきます。すべてが電話の音声によるものです。ジョーは警官でしたが、職務上何がしかの問題を起こし、現在は緊急指令室でオペレーター業務に携わっています。彼は明日、重要な裁判に出廷予定でナーバスになっています。
通報者らと音声でやりとりする『緊急通報指令室』がジョー・ベイラーの脳のようなもので、その一箇所(脳)が、彼ならではの偏った情報処理と指示がなされる現場。「彼ならではの偏った情報処理と指示」とは、すなわち “性格や性向、タイプ、個性” に基づくジョーの反応です。
ジョーは、車で連れ去られている女性エミリーからの通報を受け、息を飲むような緊迫感のなか、聞こえるかすかな音声を頼りに関係部署と連携を取って解決を試みます。
エミリーの情報から、ジョーは彼女の緊急連絡先を特定。その番号に電話すると、アビーと名乗る6歳の女の子が出ました。両親(エミリーとヘンリー)はどこかへ行き、赤ん坊の弟オリバーと残されたと言っています。アビーから父親ヘンリーの電話番号を聞き出して記録を参照すると、彼には前科があること、所有する車のナンバーなどが分かりました(こういうときには便利だけれど、個人情報の観点からは恐ろしい “紐づけシステム” ですね)。
主人公である緊急通話指令室で働くジョーには妻ジェスと娘ペイジがいます。ジョー側の問題によって現在は別居中です。明日が彼にとって重要な裁判の日だからでしょうか、娘ペイジと話をしたくて堪らず、仕事の合間を縫って、深夜に何度も妻に電話をして困らせます。ジョーは映画の最初から最後まで苦悩しており、おでこに手を頻繁に当てたり、頭を抱えたりします。こけた頬、目の下にはクマ。“病んでいる感” たっぷりです。
ジョーは、エミリーの娘である気の毒なアビーに、自分自身の行為によって気の毒な状況となっている娘ペイジの姿を投影しているのでしょう。自分自身の救済を求める気持ち(罪ほろぼし)もあって、越権行為であることを意に介さず、ジョーはエミリーやアビーの命を救おうと関連部署や仲間のリックに対応を求めたり、アビーの父ヘンリーに自ら電話をしたりします。
エミリーの言っていることを踏まえて、彼女に脱出の手順を指示し続けていたジョー。ある時点で自分が致命的な勘違いをしていたことに気付いて絶望します。
姿の見えない相手との音声頼みのコミュニケーション、説得しても思うように動いてくれない人たち、自らの勘違いによってもたらされた深刻な事態。自分ではコントロールできないことだらけの状況にお手上げとなり、エミリーや子どもたちを救うつもりで見当違いなことをしていた自分に気付いたとき、ジョーは己の罪深さに打ちのめされます。また必死で救おうとしていたエミリーの精神に起きた反応(蛇を解放したい気持ち)が、自分自身の内部にもあることに気付きます。
そのような衝撃的な瞬間を経て、自分を守ろうとしていたエゴが力を失い、ジョーは数時間前までは考えもしなかったことを決断、それを仲間のリックに伝えます。
オリジナル(デンマーク版)とハリウッド版の違い―「THE GUILTY/ギルティ」
リメイク版の元になっているデンマークの映画「THE GUILTY/ギルティ」はNetflixとAmazonプライムビデオで視聴できます(本日現在)。
「リメイク版のジョー」 ⇒ 「オリジナル版のアスガー」であり、アメリカとデンマークという国の違いが細部に反映されてはいますが、プロットも展開もほぼ同じ。「リメイク版のジョー」が見るからに憔悴/混乱しているのに対し、「オリジナルのアスガー」は比較的健康そうに見えます。
「リメイク版のジョー」は自分の娘と話をしようとして別居中の妻に何度か電話をしますが、「オリジナル版のアスガー」は家を出て行った妻に電話しません。エンディングの描き方が若干違います。しかし、かなりの部分で同じ内容なので、なぜリメイク版を作ろうと思ったのか、疑問に感じます。
しかし敢えて言うならば、「リメイク版のジョー(ハリウッド版)」のエミリーやアビーへの関わり方のほうが “贖罪性” が強く、必死の対応が報われなかったことで彼は自分自身に絶望する(=自分を守ろうとする気持ちが消失する)という部分のコントラストが強いのが、オリジナル版との違いです。
また映画の終わり方や効果音が明示的なのもハリウッド版の特徴。どんな人にでも分かるように作られています。細かな事実関係を教えられることを好まず、もっと自分でいろいろと想像を膨らませたい人向けなのがデンマーク版(オリジナル)ということになります。
「THE GUILTY/ギルティ」の意味するもの
名詞の “guilty” には “有罪” “過失責任” “罪悪感(自責)” といった意味があります。
ジョーは裁判を控えていますので “有罪” というニュアンスが明示的と言えます。また彼は、自分が致命的な勘違いをしていたことに気付くので “過失責任” を覚悟したはず。それに続いて、酷い “罪悪感(自責)” に苛まれたことでしょう。ジョーの内面に “guilty” を生み出しているのは、突き詰めて考えると彼特有の情報処理パターン(回路のルーティン)です。
しかし、あにはからんや、事態はジョー(ハリウッド版)の判断/予測/推察とは異なる収束を迎えます。虚と実のどちらについても罪つくりなのは、脳内の情報処理回路であることが示唆されます。エゴによる策略の無意味さ、己の姑息さがもたらすものは悲劇であることがジョーの腑に落ちます。そして彼の内部に変化/変容が起きます。状況への抵抗を止め、自分自身の現実を100%受け止めることを決心します。
「ゲーム」と「THE GUILTY/ギルティ」の共通点
ふたつの映画はプロットやストーリーは異なりますが、「守ろうとしている自己が強固にある」→「どうしても抗えない状況に飲み込まれる」→「エゴ、自尊心、アイデンティティを放棄せざるを得ない “お手上げ” 状態になる」→「自己放棄によって、結果として人生の重荷を下ろすことになる」という流れが共通しています。
「自己を守ろうとしてギリギリの状態で踏ん張っている主人公」に自分自身を投影して共感し、「この問題は解決するのだろうか。一体どうなるのだろうか」とハラハラし、「新たな境地/今までとは違う自分になるためには、この手のクライシスが必要なのだろうか」と映画を通じて自分に問題提起し、「出来事の流れへの抵抗を止めて “自分だと思っている自分” を捨て、今に没頭することが人生を大きく変えるうえでのカギなのかな」と思うに至る、そんな映画と言えます。
「ゲーム」は、人為的に自己放棄の機会を提供する『ドラマ仕立ての自己啓発プログラム』のお話です。一方「THE GUILTY/ギルティ」は、ギリギリの自分に偶然訪れた啓発の機会を描いたお話です。啓発云々よりも、姿の見えない人たちとのやりとりから視聴者の想像力を喚起し、主人公とともにドキドキハラハラを味わう効果を主眼に置いた作品なのかもしれませんが、バックグラウンドノイズ(効果音)や声の調子、会話の内容が、視聴者それぞれの脳内情報処理システムに働きかけ、それぞれの感じ方/判断/予測/推察へと至らせる映画であると言えます。
この世(外側)の出来事を通した “心(内側)の劇場”。どちらも2時間程度で楽しめる内容で、お勧めできる映画です。