「ビヨンド・ザ・エッジ 歴史を変えたエベレスト初登頂」
1953年、イギリス隊のエドモンド・ヒラリー、シェルパのテンジン・ノルゲイによって世界で初めて成功したエベレスト登頂を描いた映画です。
アイキャッチに使った写真はヒラリー卿が学校を作ったクムジュンです。
さて映画につきまして。現代からすると非常にみすぼらしいと言いますか、機能/性能の高さを微塵も感じさせない装備で国家の威信をかけ登山をしています。酸素ボンベの装備/使用についても試金石となる実績がありませんでした。
後年エベレストにおける商業登山が実現したのも
- 装備の機能/性能の充実・向上
- テクノロジー(通信技術・機器等)の発達・発展
- それらにより、かつて手に入れられなかったモノ/コトに対し、お金で解決を図ることが可能になった
ことが、非常に大きいように感じます。
初登頂を果たしたエドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイは、イギリス隊のなかでもアタック要員として二番手でした。ヒラリーは、ニュージーランド人。テンジンは、チベット人。イギリス人に交じり、外様みたいなもの。
第1次隊としてふたりのイギリス人隊員がアタックを開始。しかし山頂にあと91mまで迫ったにも関わらず、メンバーのひとりの酸素ボンベ不調により登頂を断念。
第1次隊が登頂に成功していれば、ヒラリー達による第2次隊の出番はありませんでした。
このところ山岳物の映画(ノンフィクション)を多く見ていますけれど、強く感じるのは「自分の運命は『必死になって頑張っている自分』が握っているわけではない」ということです。
「自分の運命は、自分が最終的に握っている」「マインドセットを変えることで、自分の運命を操作できる」、そう思っているとしたらはなはだ傲慢。それは自分の手の届く範囲の、小さな世界に限ったお話です。
もちろん体力、精神力、知恵が不十分な状態で、難易度の高い山の頂に至るのは難しいことでしょう。
したがって
- 判断力と勇気
- 不屈の肉体と精神
- 登山技術と経験
- 目標への執着
- 一旦ダメと判断したら執着を手放し退却する決断力
- 仲間との信頼関係等
を「自分が丹念に準備し続ける」ものとして外すことができません。
- 「エベレスト山頂に到達した自分をイメージして、喜びの波動を出しましょう」とかの波動アプローチ
- 「私はエベレストの頂上に立ちます。既に立っています」とかのアファメーション
- 「山に登ることを厳しいと思うから、厳しい現実として嵐や落石、雪崩れが起きるのです。思い込みを外しましょう」とかのマインドセットの変更
こういったアプローチを優先しても効果は期待できないでしょう。
話を運命に戻します。
前回の記事でエベレスト大量遭難事故について
私なりの結論は既にあって、運命としての死を前にしたとき、すべての選択は自動的に死に向かう、となります。
と書きました。
例えばAC隊隊長のロブ・ホールは、とても几帳面な性格で、時間を守って退却することの重要性を熟知していたベテラン登山家だったそうです。
その彼が、引き返すタイムリミットである14時を3時間近くもオーバーしているにも関わらず、エベレスト山頂で顧客が登ってくるのを待っていました。
「普段の、そしてそれまでの彼からは考えにくいことだった」
商業登山隊であるがゆえ登頂者数実績を稼いでアピールしたかった、顧客登山家は日本円にして7~800万円くらいを支払い、万障繰り合わせて参加しているので、顧客満足度を上げるためにも情の部分でも無理をしてでも登頂させたかったという、ほかからの推測もあったようです。
人間ですから、欲もお人好しで優しい面もあるのが自然ではありますが・・・やっぱりちょっとおかしいですよね?
普段通りでなかったことについて、言葉での理由づけができない “何か” があった。
おかしなことをしていたのは彼だけでなく、関わっている人達がそれぞれの立場においてちょっとずつおかしなことをなぜかする流れとなり、それらが積み重なっていきました。
「そうしよう」と思って取り組んでいたわけではないのに、なぜか「そうなってしまった」のです。見えない背後から人を動かし操る力、それは集合意識を含んだ無意識とも表現できます。
「私は、なぜこんなことをしているのだろう?」が人数分掛け合わさり膨れ上がって、手を加えようのない “雪だるま” を作り出す。それが運命です。
「私」や「あなた」という小さな人間の力で意図した方向に変えられないもの。
エベレストの『デスゾーン(標高8000m以上)』では刻一刻と人間の身体機能が低下していき、死に向かうのが必然であると言われています。その高度に至らなくても意識障害や判断・認知能力の低下は生じます。
つまり私達が生きるうえで頼りきっている、休むことなく機能しているのが当たり前の『マインド(脳)』が働かなくなっていく。そういった状態に至った場合人は、無意識層の支配下で動くしかありません。そして自然は人間の都合にお構いなく、もっと大いなるところのバランスに応じ、その姿を変え続けています。
大いなる自然に人間のような人格があると私は思っていません。
自然は人間にチャンスをくれますが、人間に理解できるような判断基準をもって動き続けているわけではない。ゆえに人間は自然の脅威を畏れてきました。