「歴史の歩みにおけるイランと日本」を読みつつイラン旅行を振り返る(1)

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ペルシア語を習っていた先生から、しばしばイラン関連イベント等の情報をいただきます。

このたび「歴史の歩みにおけるイランと日本 —サーサーン朝ペルシャから現代まで―」という書籍が株式会社包<パオ>から発刊されるとのことでしたので、購入してみました。

セイエド・アッバス・アラグチ外相とファエゼ・ジャナティ・モヘブ氏(イラン・イスラム共和国外務省アジア・オセアニア総局の日本問題および韓国問題の専門官)の共著となっています。

2018年のイラン旅行をご一緒した方たちとFacebookでつながっていることもあって、そちらに投稿していく予定でしたが、個人的な記録にもつながるため、このブログにも残していくことにします(内容は若干変えるかもしれません)。

私のブログは海外ドラマに関心があって閲覧する人と、海外(旅行や事情)に関心があってアクセスする人に分かれていて、両者はほぼ重ならないと感じています。

ゆえに海外ドラマ派にとっては関心のない話題でしょう。ドラマはドラマで、並行してボチボチ書いていきます。

第1回は[日本とイランの原初の交流-シルクロードから正倉院まで]。

述べていること/わかったこと

本書によれば「イランと日本の間には地理的距離があるが、古くからシルクロードを通じて、日本人はイランの産物やイラン人そのものと接点をもっていた」。1300年以上前の飛鳥時代には既に渡来していたとする学者もいて、日本の博物館や東大寺の正倉院に収蔵されている美術品(楽器、ガラス杯、絨毯など)にはイラン起源のものが含まれているそうです。

両国の交流はサーサーン朝(224~651年)の後期に始まったと考えられ、イラン人一団は隋や唐を経由して飛鳥地方に到達したと書かれています。「えらく遠いところからお疲れ様です」といったところですが、彼らの移動理由は“サーサーン朝末期の政治的混乱を逃れた亡命”とのこと。

642年のネハーヴァントの戦いでアラブ軍に負けたイラン軍。アラブ人の攻撃を怖れて、東アジアや東南アジアへ逃れた人々は、その地に定住(もちろん、もっと別のエリアへ逃れた人たちもいます)。

ここでいう “東アジア” とは日本を含んでいない気がします(島国なので到達するのにひと手間かかります。それに「あなたの祖先はイラン人ですね」と言いたくなるような末裔っぽい顔つきの人たちを見かけますか?往時の支配地域を考えると “イラン人” と言っても多民族からなっていたとも考えられますけれど)。

そうは言っても、大陸方面から日本を訪れての交流は確実にあったのでしょう。

奈良時代には、さらに多くの美術品がイランから日本へと持ち込まれました。

イラン旅行を思い出しつつ、歴史を概観

広大だったサーサーン朝の支配地

イランはペルシアとも言いますが、もともとのペルシアとは“イラン高原のパールス”に由来し、ペルセポリスのあった辺りを指すそうです。ペルセポリスはアケメネス朝ペルシア帝国の都で、サーサーン朝の首都はクテシフォンであり、現在のイラクに位置します(最初の2年はイランのファールス州エスタフル)。

戦いに勝ったり負けたりしつつも、最盛期の領土はあまりにも広大であり、現在のイラン、イラク、コーカサス、アフガニスタン、中央アジアなども含んでいました。

すべて挙げると、現在のイラン/イラク/クウェート/アフガニスタン/パキスタン/トルクメニスタン/ウズベキスタン/アゼルバイジャン/アルメニア/ジョージア/サウジアラビア/バーレーン/カタール/アラブ首長国連邦/シリア/レバノン/イスラエル/ヨルダン/トルコ/エジプト/イエメンに属する地域を支配していました。

その勢いをイランが取り戻すことを想定すると、湾岸諸国等がDNAレベルで現在のイランを脅威とみなすのも理解できます。

ナグシェ・ラジャブとナグジェ・ロスタム

訪れた遺跡を思い出してみますに、ペルセポリスの近くにあったナグシェ・ラジャブやナグジェ・ロスタム(歴代王の墓)のレリーフがサーサーン朝由来でした。日本語表記で “ナグシェ” なのか、“ナクシェ” なのか、“ナグジェ” なのか、調べてもバラバラで正解がわかりません。

自慢にもなりませんが、私は予習してから旅行することはありません。“帰国してから調べる” くらいのことはしますが、すぐにそれらの内容を忘れてしまいます。

ナグシェ・ラジャブやナグジェ・ロスタムについては「広々として乾いた空気が気持ちよかったな」くらいの記憶しかないのですが、この機会に写真を見直すことにしました。

レリーフには、いろいろと歴史的な場面が描かれている(ことくらいは理解していた)ものの、細かいことにはあまり興味がありませんでした。今になって「はあ、そういう意味だったんだ」と。写真は捨てずに保存しておいたほうがいいですね。

ローマ帝国との衝突が多かったものの、比較的長い間、続いた政権とされており「諸王の王(シャーハンシャー)」はアルダシール1世(226-241/ゾロアスター教の神官説あり)、シャープール1世(241-272)、シャープール2世(309-379)、ホスロー1世(531-579/サーサーン朝最盛期)、ヤズデギルド3世(632-531)となっています。

サーサーン朝の創立者(初代シャーハンシャー “諸王の王”)アルデシール1世がゾロアスター教を国教にしました。

ナグジェ・ロスタム遺跡「降伏するウァレリアヌスらと騎乗したシャープール1世」(中央下)
ナグシェ・ラジャブ遺跡「アルデシール1世の王権叙任」(左)、「シャープール1世の王権叙任」(右)
ナグシェ・ラジャブ遺跡「シャープール1世と廷臣たち」
ナグシェ・ラジャブ遺跡「アルデシール1世の王権叙任(アフラ・マズダ神(右)から王の環を受け取るアルデシール1世)」。正面左あたりにあるのが「ゾロアスター教の神官、カルティール」
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