“自分” を形作っているのは何だと思いますか。肉体ですか。精神、脳、心でしょうか。「私は」「自分は」と言うとき、“私” や “自分” とは具体的には何を指しているのでしょう。
そんなことを考えさせられる映画にもいろいろありますが、今回は「メメント」と「シャッターアイランド」を取り上げます。
「メメント」(2000年)
- 監督:クリストファー・ノーラン(兄)
- 原作:ジョナサン・ノーラン(弟)
- キャスト:ガイ・ピアース、キャリー=アン・モス、ジョー・パントリアーノほか
- あらすじ:妻とともに強盗に襲われ、頭部に損傷を受けて以来、新しい記憶を数分以上保つことができない前向性健忘症になったレナード(ガイ・ピアース)が主人公。記憶を保てないので、メモを残したり、ポラロイドカメラで撮影したり、特に重要なことはタトゥーにして自らの身体に刻んでいる。前向性健忘症になる以前のことは覚えていて、妻を殺したジョン・Gを探し出して復讐しようと考えている。テディという親しげに接してくる男(ジョー・パントリアーノ)がレナードの世話を焼き、いろんな情報を与える。バーの女ナタリー(キャリー=アン・モス)周辺の人間関係とレナードは関わりをもつ。保持できない記憶と自分が残したらしい記録に翻弄され、レナードは妻を殺した男を今日も探し続ける
「メメント」はカラーフィルムのパートと、白黒フィルムのパートからなり、ふたつが組み合されています。カラーフィルムのパートは「新しい出来事⇒古い出来事」、白黒フィルムのパートは「古い出来事⇒新しい出来事」の順序で進行します。初見ではちょっとワケが分からないところがあります。増してや、ぼんやり観ているとまるで分かりません。
「なぜ、こんなことが起きているのか」「この出来事は何からもたらされ、この後はどんなことへと繋がるのか」「この人は何者?」等、即座には腑に落ちない映画です。そういうところは「パルプ・フィクション」に似ています。観る者の脳も機能不全に陥った感じになります。
記憶が断片的、まだら、自分が何をしていたのか、自分に何があったのか、自分の周囲にいる人たちに以前も会ったことがあるのかどうかも覚えていない。それが顕著な状態になっているのが、主人公のレナード。前向性健忘症になる以前の記憶はあるので “自分” というアイデンティティは保持されています。認知症が進むと、彼と似たような状態になるのかもしれません。
次は「シャッターアイランド」です。
「シャッターアイランド」(2010年)
- 監督:マーティン・スコセッシ
- 原作:デニス・ルヘイン
- キャスト:レオナルド・ディカプリオ、マーク・ラファロ、ベン・キングズレーほか
- あらすじ:1954年、連邦保安官テディ(レオナルド・ディカプリオ)とチャック(マーク・ラファロ)は、ボストン港の孤島 “シャッターアイランド“ にある、犯罪者を対象とした精神病院を捜査のために訪れる。レイチェルという病院に収容されていた女性が行方不明になったからだ。精神に問題を抱えた犯罪者たちを調べ、“シャッターアイランド“ を捜索しているうちに、テディの脳裏に自身のナチス強制収容所での兵士としてのトラウマ、死んだ妻の記憶が錯綜して混乱していく。謎めいた精神病院は何かを隠蔽しているのだろうか。テディの精神が何かを隠しているのだろうか
連邦保安官テディは “シャッターアイランド“ へは任務で訪れ、したがって仕事としてなすべきことを行います。彼は連邦保安官としてのストーリーを生きています。私たちもナントカカントカという名前の人物、こういう職業の者としての人生(ストーリー)を生きています。
テディは、これまでの人生のなかでナチス強制収容所での体験、妻の死がトラウマとなっているようで “シャッターアイランド“ での捜査の最中に記憶がフラッシュバックします。彼は過去の人生を追体験し、同時に今の人生を体験しています。これも一般人によくあることです。
“自分” だと思っている “自分” とは、時間の移り変わりに伴う『連続した』『どこかしら一貫性のある』自己像を “自分の精神” が眺めている状態だと私は考えます。すなわち記憶です。
“シャッターアイランド“ は犯罪者を対象とした精神病院です。患者には患者なりの『連続した』『どこかしら一貫性のある』自己像があって、それを “自分の精神” が眺めています。“自分の精神” が眺める自己像やそこに含まれる事実関係が、他者が客観的に観た場合の人物像や事実と乖離していることもあって「精神を病んでいる」と診断されたのだろうと推察します。
「メメント」も「シャッターアイランド」も、すぐ隣にある非常事態&狂気を連想させ、ある種の恐怖を覚えます。
「シャッターアイランド」はテディ(レオナルド・ディカプリオ)の最後のセリフがポイントと言われておりますが、どんな人も自分にとって都合のよい記憶(ストーリー)を作り上げ、自作自演しているものです。そういう認識でこれらの映画を観ると、正常と狂気は隣り合わせ。反社会的なことはしないけれど、“自分” に対し “自分” にとって都合のよい解釈をする人はたくさんいます。
スペインの小説をベースにした、こちらの映画も面白いですよ。