「怒り」と「恐怖」から生まれる「暴力」

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観る映画を、何となく選んでいるつもりなのですが、なぜか関連性のあるものをチョイスしているようです。先日の「グッド・ウィル・ハンティング」と「最強のふたり」は、他者との出会いを通じて自分の本音を知る、自己開示によって他者と正面から向き合う、という共通したテーマを持っていました。

されることで、求めていたものがわかる-「クッド・ウィル・ハンティグ/旅立ち」と「最強のふたり」
「グッド・ウィル・ハンティング」と「最強のふたり」。他者からされたことが、その後の自分の人生を変えていく、そんな感想をもったふたつの映画。

次に観たのが「ナチュラル・ボーン・キラーズ」と「ボウリング・フォー・コロンバイン」。そう言えば昔話題になった映画だったっけ、という軽い動機から。どちらも内容をよく知らないままに観ました。

「ナチュラル・ボーン・キラーズ」は人を殺しまくって逃避行するカップルが、にわかに社会のヒーロー、ヒロイン化し、私欲まみれの人たち(TVタレント、刑事など。私欲と言っても、多分よくあるレベルのもの)と絡みながら、さらにたくさんの人を銃で撃ち、刑務所から姿をくらまします。

アメリカでは、この映画の主役カップルを模倣する人たちが出現して社会問題になったとか。

カップルの片割れマロリーは父親からずっと性的虐待を受けていて、肉屋の青年ミッキーと共謀して彼女の両親を射殺して逃げます。その道すがら、彼らが不愉快と感じた人たちをどんどん射殺していきます。

ただし何十人と射殺している、というところからのバランスで言うと心地悪さの少ないカップルで(あくまでも私から見てですが)彼らの話題性に乗じて手柄を挙げようとする一般的な職業人に、これといった美徳がないため、何て言うのか、どっちもどっち。

殺人を繰り返すカップルは「怒り」の矛先を、彼らを見下す人たちに向けて躊躇なく銃を乱射します。

彼らの挙動を自分の功績に利用しようとする人たち、職務や役割に振り回される人たちは、社会から脚光を浴びたり、職業的成功を収めたり、ポジションを安泰なものにしたりに一生懸命。何かを掴み続けられない、手に入れられない、奪われることへの「恐怖」をベースに持っています。

一方「ボウリング・フォー・コロンバイン」は、銃(殺)社会のアメリカをいろんな側面から取り上げたドキュメンタリー映画。ボーリングがテーマかと思いきや、そうではありませんでした。

アメリカ社会の一見前向きなムード作りに潜む「暴力性」。カナダも同じように、人々が銃を保有する国であるにも関わらず、銃殺事件が少ないのはなぜなのか。

アメリカだけが銃で桁違いの人たちが命を落とし、一般社会の人たちが「恐怖」ゆえに自らを銃の所有によって守ろうとしている。人種差別、格差・貧困などの問題にも言及しつつ、マイノリティの潜在的な「怒り」に対する白人たちの潜在的な「恐怖」に基づく防御の態度(その象徴が銃であること)を浮き彫りにしています。

アメリカは、犯罪者や社会から脱落した人たちへの更生プログラムはご立派ですが、そういう建前的(マインド的)ご立派さの陰にあるのが「怒り」と「恐怖」がぶつかって、今にも「暴力」を生み出すかもしれない危うい社会。

「ナチュラル・ボーン・キラーズ」はフィクションで「ボウリング・フォー・コロンバイン」はドキュメンタリーですが銃乱射事件といった類のものは連鎖します。

日本でも何かひとつの事件が起きたとき、それに類似した事件が連続して起きるというケースが見られます。誰かがそのトリガーを引くのです。無意識層における集合的な反応と捉えることもできるし、霊的に表現すれば憑依なのかもしれません。

「ボウリング・フォー・コロンバイン」ではコロンバイン高校銃乱射事件の被害者2名を中心に、銃弾を販売していたKマート(普通のスーパーマーケットチェーン)に働きかけることで、その販売を止める方向へと意思決定させています。

この世においては何かを変えるために具体的な行動と知恵を示すことが必要で、このシーンに私は揺さぶられましたね。実際に身体を張って何かを成し遂げるということは実に尊いことだと思います。

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