アメリカの女性差別の話。映画「ビリーブ 未来への大逆転」と「プロミシング・ヤング・ウーマン」

スポンサーリンク

「ビリーブ 未来への大逆転」の原題は “On the Basis of Sex” であり、直訳すると「性に基づいて」。収まりがよくないので「ビリーブ 未来への大逆転」という邦題を付けたのでしょう。ユダヤ系移民の子どもとして育ち、リベラルな判事として性差別撤廃などを手掛けたルース・ベイダー・ギンズバーグを主人公とする実話ベースの映画です。

一方の「プロミシング・ヤング・ウーマン」は、自殺した女友だちの復讐として、女性を蔑視し、性のはけ口にする男たちを成敗していくキャシーの物語。「ビリーブ 未来への大逆転」とは随分異なるアプローチのアメリカ映画ですが、扱っているのは男性に潜んでいる、女性を蔑む視点や感情。すなわち性差別意識です。

前者はヒューマン/社会派映画で、後者はスリラー映画になろうかと思います。アメリカは日本に比較して差別に敏感な国と思われています。いろんな人種や文化が共存する社会であることから “差別に敏感” になる経緯を辿った国とは言えるものの、“差別がない” わけではないという理解に至る、ふたつの映画です。

実際のところ、渡米した場合、日本人が海外から来た人たちに対して行う差別にも増して、アジア人や日本人であることを理由に軽く扱われたり、侮蔑的な対応を受けたりすることがあると思います。それが現実というもの(もちろん差別しない人たちもたくさんいることでしょう)。長年に亘る根強い差別の歴史があるからこそ、差別に敏感な社会が出来上がっています。

性差別撤廃に功績を残したルース・ベイダー・ギンズバーグ

ルース・ベイダー・ギンズバーグの学歴はコーネル大学、ハーバード・ロー・スクール、コロンビア・ロー・スクールです。大変な努力家であったようですが、それ以前に非常に知的で聡明な人物であったことがうかがえます。

ハーバード・ロー・スクールへ通うようになったのは娘を産んだ翌年の1956年で、500名を超える学生のうち女子学生は9名、学内には女子トイレすらありませんでした。ロー・スクールが女性を受け入れることを可能にするまでに要したのが10年。ルースの入学は、女性に許可が下りるようになった6年目のこと。“女性が法律を学ぶ” ことに対する理解が、まだまだ得られにくい時期と環境でした。

新入生の歓迎会で教授から「女子学生の一人一人が自己紹介し、男性の席を奪ってまで入学した理由を話すように」言われます。参加者の面前で、教授が「それは下らない理由だ」等のジャッジを下します。「父が弁護士なので手伝いを」といった理由はOKで、キャリア志向の発言は不興を買います。教授も男性なので「女に男と同じ仕事ができるわけがない」と思っているのです。

ルースの人並外れた行動力を示すもののひとつに、夫のマーティンがハーバード・ロー・スクール在学中にガンと診断されたため、子育てと看病をしながら学業を継続したことが挙げられます。夫マーティンもハーバード・ロー・スクールに在学していましたが、ルースは自身のカリキュラムに加え、彼の講義を代わりに受講し、ノートを取り、病床にある彼に内容を伝えていました。

彼女は在学校すべてで成績優秀であり、弁護士として正義のために働くことを望んでいましたが、女性であることを理由に連邦高等裁判所や法律事務所に受け入れられず、卒業後は地区裁判所判事のもとでロー・クラークとして働きました。今から60年くらい前のアメリカは、それが当たり前の社会だったのです。女性は家庭で育児や家事、介護を行うのに適した性であるとされ、男性と同じように働いたり、同様の労働条件を得たりしようとすることや、裁判で陪審員を務めることはナンセンスとされていました(現在は男性の看護師、女性の弁護士等が存在しますので、随分と変化したものです)。また「男女差別は合法」との判決も下っていました。

ルースは「教授が辞めて、黒人の候補がいないから女でもいい」と言われ、ラトガース大学ロー・スクールの教授となり『性差別と法』について教えます。

夫のマーティンは税法専門の法律家であり、1950~60年代においては珍しい、極めて平等な夫婦関係を築いていました。彼はルースの仕事や家庭生活に対して非常に協力的、献身的であり、常に妻の理解者でした。映画を観る限りでは、今の時代においても、ここまで妻と同権・公平・平等であろうとする夫はいないでしょう。

マーティンが持ち込んだ税法214項に関する訴訟を皮切りに、法律における性差別撤廃のライフワークを突き進むルース。税法214項の示す「親を介護する独身男性には介護費用の控除を認めない」ことが憲法修正第14条に照らし合わせて合憲か違憲かを論点とするもので、女性ではなく男性差別の事例です。そして大方の予想は「税法の訴訟に対し、憲法を持ち出して勝訴するのは難しい」というものでした。ルースとマーティン、その他ごく少数の支援者を除き(もっと言えば支援者さえも)裁判で勝訴することなど不可能と考えていたのです。しかし提示された和解案を退け、ルースとマーティンは上訴の代理人として法廷へ臨みます。

ルースはコロンビア大学ロー・スクールで女性初の常勤教授となり、アメリカ自由人権協会 (ACLU) ニュージャージー支部で法律顧問に就任。数多くの性差別問題に関する原告代理人として名を馳せました。1980年よりコロンビア特別区巡回区連邦控訴裁判所判事。1993年、上院により最高裁判所判事に承認されます。2020年、87歳で逝去。

原題の “On the Basis of Sex” は訴訟の趣意書で使われた文言から採っているようです(確証はありません)。

ルース・ベイダー・ギンズバーグのドキュメンタリー映画についてはコチラ(↓)。

アメリカの人権に道筋を示したふたり。ドキュメンタリー映画「RBG 最強の85才」と「私の名はパウリ・マレー」
アメリカ最高裁判所判事に昇りつめたルース・・ベイダー・ギンズバーグ。彼女に影響を与えたマイノリティの弁護士パウリ・マレー。ふたりのドキュメンタリー映画を取り上げました。

性差別意識は多分、どの社会にもある

性にせよ、人種にせよ、それが “差別” か “区別” かについての線引きは難しいものです。しかし映画「プロミシング・ヤング・ウーマン」は “差別” に関するものです。蔑視(見下し)と偏見は “差別” につながります。一方 “区別” は理解から生まれます。

キャシーは将来を嘱望された医学生でしたが大学を中退し、カフェの店員として働いています。夜ごとバーで泥酔を装い、性的な良からぬことを目論む男性に連れ帰らせ、彼らを懲らしめていました。それはキャシーにとってルーティンとなっていましたが、始めたきっかけは7年前の親友ニーナの自殺です。ニーナはレイプされたにも関わらず、それを周囲に信じてもらえず絶望しました。

この映画に登場する男性たちはキャシーに対して性的な侮辱ワードを口にしますが、男とは上品に見えても、あえて口に出さずとも、そういう側面をもった生き物なのだろうと思います(これも偏見、性差別にあたるかも)。どの国にも、どんな社会にも、そういう類の男性はいることでしょう。

キャシーは医大で共に学んだライアン(現在は小児科医)と再会、かつての同級生たちの近況を聞きます。そしてニーナをレイプした学生(現在は麻酔科医)がロンドンから帰国し、結婚予定であることを知ります。それまでニーナの事件と無関係な男たちを成敗していたキャシーは、事件に冷淡で無関心だった人たちに会い、謀り事を仕掛け、反省を引き出そうとします。

しかしライアンと恋に落ちたこと、ニーナの母に事件のことを忘れるよう言われたことをきっかけに、世のスケベ野郎たちを成敗する活動を休止します。

そんなとき、レイプ犯ら男子学生たちと仲の良かったマディソン(当時は女子学生)から衝撃的な情報を得るキャシー。そして彼女はレイプ犯への復讐を決意します。その復讐は段階的で、先々に起こり得ることを予測したうえで手が打たれていました。

エリート男子大学生の羽目外しの延長のレイプを取り上げている点が、以前の記事で紹介した「ある告発の解剖」と似ています。自分の立ち位置や社会的パワーを勘違いして、女性を軽く扱っていいと思っている上級大学生にときどき見られる性差別で、そこから事件が生まれます。

時代に関係なく、上級だろうと下級だろうと、女性を見下し、好き勝手していいと思っている輩はいますので、今に近い歴史をざっと眺めても「なぜか女性は男性から蔑まれることが多い」ということでしょう。それが社会的な価値観や役割(「男は外で稼ぎ、女は家を守る」みたいな慣習)から来るものか、性欲面の男女差に由来するものか、個人的な育ちによるものか(性的虐待を受けた/性差別の強い環境で育った等)をスッキリ判別することは困難です。

また「そこまでして復讐するのか」という “Too much” 感を伴いつつ、淡々としたテンポで計画が遂行されていく点に「ゴーン・ガール」のテイストと似たものも感じます。理由は今ひとつ分からないのですが、批評家に大絶賛された作品であるようです。

旅行は人生の大きな喜び(^^)v
ランキングに参加しています。
応援をお願いいたします。
↓  ↓  ↓
にほんブログ村 旅行ブログへ
にほんブログ村