アメリカの人権に道筋を示したふたり。ドキュメンタリー映画「RBG 最強の85才」と「私の名はパウリ・マレー」

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以前ふたつの映画について書きました。

アメリカの女性差別の話。映画「ビリーブ 未来への大逆転」と「プロミシング・ヤング・ウーマン」
「ビリーブ 未来への大逆転」と「プロミシング・ヤング・ウーマン」は異なるアプローチの映画ですが、どちらも男性が潜在的にもっている性差別意識を取り上げています。

「ビリーブ 未来への大逆転」の主人公であるルース・ベイダー・ギンズバーグ本人が登場するドキュメンタリー映画が「RBG 最強の85才」(原題:“RBG: Beyond Notorious”)。

リベラルな判事として性差別撤廃などを手掛け、最高裁判所判事にまで昇りつめたルースにも影響を与えたといわれるパウリ・マレー。弁護士、活動家、詩人、司祭であったパウリを取り上げたのが「私の名はパウリ・マレー」(原題:“My Name Is Pauli Murray”)です。肉体的には女性、内面は男性との自認に基づき、記事タイトルに「女性」を用いず、「ふたり」としました。

長文になりましたので、関心のある部分をかいつまんでお読みいただければと思います。

「RBG 最強の85才」:晩年から遡って人生を概観

「ビリーブ 未来への大逆転」はルース・ベイダー・ギンズバーグの人生を題材としているので、「RBG 最強の85才」で語られる人物像や彼女のキャリア形成との間に齟齬はありません。

映画とドキュメンタリーの比較

「ビリーブ 未来への大逆転」では夫マーティンをアーミー・ハマ―(イケメン)が演じていて、ルックスにはギャップがあります。そして本物のマーティンのほうが、もう一段明るく開放的なキャラクターに感じられました。アーミー・ハマ―は奇妙な性的嗜好が発覚して干されてしまいましたが、善き夫の役もそれなりに演じています。

俳優が演じた映画とドキュメンタリーの違いと言えば、後者のほうがケースを通じてルースが何を成し遂げたかがわかりやすく解説されており、そのようないくつもの功績により、控えめな性格であるにも関わらず、アイドルやカリスマのようにもてはやされ、人々にとても人気があったということがわかること。ルースをあしらったマグカップなどのグッズまであり、彼女を愛する人々でイベントは大盛況です。

「ビリーブ 未来への大逆転」でルースを演じたのはフェリシティ・ジョーンズ。ドキュメンタリーを観ると、本人の話し方を忠実に再現しようとしていたんだなと思います。

RBGの稀有な人物像

歴史に残るような社会的な功績をもち、「女性初」のポジションをいくつも獲得し、ずば抜けて高い知性があって大変な努力家。一目会いたい人たちが多数いた高齢の女性。日本にも似たような人はいるのでしょうか。インドネシアのスカルノ元大統領第3夫人のデヴィ夫人、日本人初の国連難民高等弁務官に就任した緒方貞子さん、国際交流やスポーツ振興分野で活躍されている高円宮当主の久子さまなどを思い浮かべました。しかし後の祖国を変える仕事をしたこと、歩んできた長く困難な道のりと後世への影響力を考えるとルースはいずれの人物とも違う感じがします。

控えめで内気な性格であることが、本物のルースからはよく伝わってきます。自分の手柄をアピールしたがるアメリカ人のステレオタイプとは異なりますし、むしろ静かで目立たないタイプ。彼女のプレゼンテーションの真髄は大袈裟なパフォーマンスやアピールで大衆の気を引くことではなく、ほかの人にはできないことをコツコツと積み上げてきた実績とそれに基づく説得力がもたらす存在感だと感じました。

パートナーの選択は重要

またドキュメンタリー映画を視聴して改めて思ったのは「結婚するなら自己肯定感が高く、相手へのリスペクトと協力を惜しまない、心が広く懐が深い人物が好ましい」ということです。私の場合、今それに気づいたところで人生に変化は起きません。もし来生があったなら心しておきましょうという程度ですが、長きに亘って有能なルース(料理だけは苦手だった模様)がフルに活動できたのは、夫の惜しみない献身があったからこそと思われます。

ルースもふたりの子どもを産み育てながら大学院で法律を学び、一時期闘病生活を送った夫マーティンの生活や学業をサポート。眠る時間もないほど大変な日々であったことは映画「ビリーブ 未来への大逆転」の伝える通りです。

「私の名はパウリ・マレー」:人種/性差別と闘った先駆的弁護士

パウリ(1910~1985)は弁護士でありフェミニスト。性的少数者でもありました。その苦難の人生と功績により、法的に重要な数々の人権が認められてきた経緯があるにも関わらず、その知名度は高くありません。

RBG(ルース・ベイダー・ギンズバーグ)は1933年生まれ。パウリ・マレーは1910年生まれなので親子くらいの世代差があります。「ビリーブ 未来への大逆転」にもパウリは登場しており、シャロン・ワシントンが演じています。

人権が私の専門分野です。優秀だと認められるために私は闘ってきました。この社会には偏見が根付いています。“生まれつき黒人は白人に劣る” “女性は男性に劣る” といったものです

パウリ・マレー

フェーズ1:高校卒業まで

1910年、パウリはメリーランド州ボルチモアで学校教師の父、看護師の母のもとに生まれました。祖先は黒人奴隷、白人の奴隷所有者、ネイティブアメリカンのチェロキー族、アイルランド人、自由な立場の黒人と多様でした。親類は白人に見える人、有色人種に見える人などさまざまでしたが、パウリは中間色とみなされていました。

3歳のとき、母の他界、父のメンタル面での問題により、母方のフィッツジェラルド家(祖父母、伯母2人)に引き取られ、ノースカロライナ州ダーラムで暮らし始めます。

その後、白人の進む大学へ入学すること決めたパウリは伯母とともにニューヨークに移り、リッチモンドヒル高校を優秀な成績で卒業します。

フェーズ2:人種や性別を根拠に入学を拒否される

高等教育において、パウリは入学拒否に何度も遭います。白人でないこと、女性であることが理由です。30代半ばまでに教育機関の拒絶に何度も見舞われたパウリは差別への抗議行動を行います。

1928年 希望したコロンビア大学が女性を受け入れなかったため、ハンターカレッジに入学。247人の女子学生のうち黒人は4人。1933年、ハンターカレッジを卒業

1938年 ノースカロライナ大学チャペルヒル校の社会学博士号プログラムに応募するが人種を理由に認められなかった

1940年 バージニア州に入ったところで、人種隔離法に則り白人と黒人はバスの前方と後方に分かれて座らなくてはならない。運転手の指示に従わなかったためパウリと友人が逮捕される(ピーターズバーグ バス事件)

1941年 法律を学ぶためハワード大学ロースクールに通い始める。パウリは唯一の女子学生で発言を許されなかった。大学には公民権運動の重要人物が集まっていた

1942年 人種平等会議(CORE)に参加。その後、全米有色人地位向上協会(NAACP)学生支部の顧問となる

1943年 黒人を差別する飲食店などにおいて座り込みの抗議行動を行う

1944年 ハワード大学ロースクールを首席で卒業。慣例ではハーバード大学ロースクール入学への切符が手に入るのだが、女性であることを理由に入学を拒否される。やむを得ず、カリフォルニア大学バークレー校の修士課程へ進む

フェーズ3:“Negro”の女性弁護士としての活動

パウリは黒人のことを “Negro” と言い “black” という表現を好みませんでした。 “Negro” という言葉には、パウリなりの尊厳が付与されていたからです。そのルーツに対して貢献したいという思いからガーナの大学に赴任したのがこの時期です。

弁護士としての活動も本格化し、黒人「初」や女性「初」の職位への就任が増えていきます。

サーグッド・マーシャル(アフリカ系アメリカ人として初めて合衆国最高裁判所判事になった人物)が担当した “ブラウン対教育委員会” 裁判ではパウリの論点が使われていましたが、その事実はあまり知られていません。1954年の最高裁判決により、すべての人に教育施設が平等に提供されるようになりました。

全米有色人地位向上協会(NAACP)の主任弁護士でもあった彼は、パウリの1950年の著書 “States’ Laws on Race and Color” を “公民権運動の聖書” と言っていました。

1945年 カリフォルニア州の司法試験に合格。翌年、州初の黒人副司法長官に就任

1956~1960年 ニューヨークのポール・ワイス法律事務所における初の黒人女性アソシエイト弁護士として活動。そこで人生のパートナー、レニー・バーロウに出会う

1960年 西アフリカの国ガーナのロースクールの教授に18カ月の予定で就任

1961年 独裁的なガーナ政権とパウリの民主主義や人権を重んじる教育方針が相容れず、拠点をアメリカに戻してイエール大学ロースクール(博士課程)の研究員となる

1965年 イエール大学ロースクールで黒人初の法学博士を取得

フェーズ4:人種や性による差別撤廃に尽力

パウリは使命としてアメリカ社会における差別撤廃に向けて力を尽くします。「RBG 最強の85才」のルース・ベイダー・ギンズバーグとの関わりが生まれます。

一方でこの時期は、アメリカ社会における差別撤廃のムーブメントが白人と黒人の融和ではなく、分離を強化する方向へと振れたタイミングでもあります。

1961年 ジョン・F・ケネディ大統領によって創設された「女性の地位に関する大統領委員会」(委員長エレノア・ルーズベルト)のメンバーとなる

1965年 米国自由人権協会(ACLU)の委員となる。ジェンダー問題に弱さがあることから、ルース・ベイダー・ギンズバーグをメンバーに迎えようと考える

1966年 全米女性機構(NOW)の創設者のひとりとなる。人種差別撤廃の拠り所となっている合衆国憲法修正第14条を女性の権利擁護にも活用しようと考える。それはルース・ベイダー・ギンズバーグによる1971年最高裁での “リード対リード” 裁判の弁護において採用されることになる

1968年 ブランダイズ大学の教授に就任。黒人研究学部の創設を求める学生運動が盛んとなる。人種の融和ではなく分離によって同等の権利を獲得しようという傾向が顕著になり、パウリは失望する

フェーズ5:最愛の女性の死、聖職者の道へ

ドキュメンタリーではまったく触れられていないのですが、男性自認のパウリには男性との結婚歴があります。

1930年にウィリアム・ロイウィンと結婚したものの共に過ごしたのはごく短期間で、パウリ自身のセクシャリティの問題から1949年に婚姻は無効となります。

その件に触れるとドキュメンタリー作品としてのまとまりを損なうので、内容を絞り込んだのだろうと推測します。

最愛の女性で人生のパートナーだったレニー・バーロウがガンで亡くなり、パウリは残された人生で成し遂げるべきことに目を向けます。1973年に法曹界や学術界を去って神学校で4年学び、黒人女性として「初」の米国聖公会司祭が誕生します。

取り組んできた差別問題は結局は道徳と精神の問題でした。弁護士という仕事では答えは出ないと思いました

パウリ・マレー

そして自分の歩んできた道を記録として残すため、自伝の執筆に情熱を注ぎます。「困難な人生の闘いは、来るべき道徳の社会へとつながっていく」と述べています。

「法とは何だろう?」という問いに対する模範解答は「正義(Justice)」。「法が道徳につながるのか?」と考えてみると、そのようには感じません。ただし「道徳」を枠組みと捉えるならば「法」との間に親近性を認めることができるので、ふたつは連動する可能性があります。

一方で「徳」については枠やルールではかることができません。「徳」の姿は無限にあり、正しい枠組みをもたない不定形だからです。人間の善や美の最終形は「道徳や法ではないのでは?」というのが私の結論。

ともあれ2020年、ACLUはパウリの論文を基に最高裁で闘い、LGBTQの人々への差別を禁じる判決を勝ち取りました。パウリの死から35年後のことです。同じくACLUのメンバーだったルース・ベイダー・ギンズバーグは同年に87歳で亡くなっていますが、この判決を知っていたのでしょうか。

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