偉大なるパラドックス映画「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」の考察

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以前にも視聴したことがあるのですが、改めて観ました。演出、演技、音楽、撮影、脚本などが高く評価され、いくつもの賞を獲った作品です。一方で、本作を通じてのメッセージが何かが分かりづらい面があります(メッセージがあるとするならば、ですが)。

落ちぶれ俳優リーガンの “あがき” 。内なる声の “バードマン”

[ストーリーの流れ―ざっくりと]

かつて大ヒットした「バードマン」シリーズが終了して20年。バードマン役で一世を風靡したリーガン・トムソン(マイケル・キートン)は、今やこれといったヒット作もなく、さえない人生を送っています。妻とは離婚、娘は薬物中毒からの更生途上にあり、プライベートについても順風満帆とは言えません。

そんな状況を、レイモンド・カーヴァーの短編小説「愛について語るときに我々の語ること」を舞台向けに脚色、演出、自らが主演し、ブロードウェイで公演することによって挽回しようとします。

舞台稽古中に照明器具が頭にヒットして負傷した俳優ラルフ(なんと「ベター・コール・ソウル」のクレイグ・ケトルマン役の人)の代わりに起用されたマイク・シャイナー(エドワード・ノートン)は、人気(集客力)と実力を兼ね備えていましたが、非常にエキセントリックで芝居に対する主張が強く、リーガンへのリスペクトに欠け、公演を自分の思うような成功へ導きたいリーガンを悩ませます。

また公演に際し、下着姿で劇場から閉め出されたり、多大な影響力をもつ批評家と対立することになったりと、望んでいないはずのハプニングが起こります。

そんなリーガンには、バードマン(みたいな存在)が憑りついており、ことあるごとに辛辣なメッセージ、考えようによっては愛ある導きをもって彼に決断を迫ります。

空から火の玉のような物が落下していきます。

場面が変わって、俳優リーガンが楽屋で白いブリーフいっちょで座法を組み、空中浮遊しています。

独白が流れます。「なぜこんなハメになった?ひどい楽屋だな。股間のような匂いだ。俺たちの居場所じゃない」 “俺たち” と言っています。“俺たち” とは誰と誰のこと?片方は多分リーガンです。時計は午後1時15分を示し、呼び出されてリーガンは舞台稽古へと向かいます。

のっけからこの調子なので「コメディなのかしら?」と思いつつ視聴を続けます。たひたびのジョークはひたすらにブラックで面白いです。バックに流れるドラムのプリミティブなリズムが、場面転換や相互のつながりに独特の雰囲気を醸し出します。ドラム音の使い方が、映画でありながらも舞台っぽさを感じさせます。

しばしば囁かれる低音の声は、独り言ではなくリーガンへの働きかけのようです。いろんなことを言っていますが、まとめるとこんな感じ。

[リーガンへの囁きの内容]

  • 俺(バードマン)は、お前自身(リーガン)の声だ
  • 俺たちには本物の才能がある。低レベルの現状に甘んずるな。ここはシケた劇場だ
  • 俺たちは、かつてすべてを手に入れた。その後、すべてを手放すことになったが、お前(リーガン)からは怒りが消えていないようだ
  • 舞台「愛について語るときに我々の語ること」は失敗だ。演劇界で芸術家を目指しても無理だ。映画(「バードマン」)の時代は無知だったが輝いていた。お前が望めばバードマンに戻ることができる
  • お前(リーガン)は本当はバードマンだ。ただのリーガンである限り、過去の栄光にしがみつく三流役者だ。俺とお前は死ぬまで一緒だ

バードマン(内なる声)の囁きは前述のような内容で、リーガンがバードマンに戻ることができれば輝きと栄光を再び手にすることができると言います。一方で、実力派舞台俳優のマイク、リーガンの付き人を務める娘のサムらの言葉を通し、リーガンは自らの客観的な立ち位置を思い知らされます。

有名なのは俳優ではなく映画だろ?吐きそうなトークをするバードスーツを着た男。手軽にハマる低俗映画にバカが並んで金を払う。ブロードウェイは俺の街だ。誰もあんたを見ていない

マイク・シャイナー(共演の舞台俳優)

パパの名前は「バードマン3」で終わった。世間は俳優の名前を忘れてる。私たちと同じね。無視されるのが怖いのよ。でも相手にされてない

サム(リーガンの娘で付き人)

“本物であること” へと導かれる3日間

落ちぶれ俳優リーガンには、“囁きかけるバードマン” の存在とは別に、超常的な能力があることを匂わすシーンがいくつか出てきます。

手を触れることなく意図するだけで物を壊す、移動させる、自身が空中を飛んで移動するといったことです。それらはリーガンの妄想、幻覚によってもたらされているのか、本当にそのような能力があるのかどちらでしょう。それについては場面が進むにつれ、おおよその判断ができるような作りになっています。

精神的に混乱したり、ストレスがマックスになったりすると、超常的能力が現れるように私には見えました。

リーガン役のマイケル・キートン、マイク役のエドワード・ノートンの、普通ではない人物をナチュラルに演じる才能に驚かされます。彼らの役柄は、得てして大袈裟で、わざとらしい演技になるものですが、非常に自然な変人、見方によっては非常にまっとうな人物に仕上がっています。

さて、ブロードウェイでのプレビュー初日。本物のジンを飲みながら演じるマイク。それを水にすり替えられたことをきっかけに、彼は小道具のほとんどが “偽物” であることに憤慨。芝居の進行を止めてセットを壊します。当初はマイクの参加を歓迎していたリーガンは、彼を降板させることを希望します。しかしマイクの出演により前売りチケットの売上が2倍になったことを理由に、プロデューサーのジェイクに却下されます。

舞台でリーガン演じるエディの真剣なセリフ「俺の何が悪い?なぜ、いつも愛を乞う側だ?」は、リーガン自身を陰から動かすエネルギーを示すものとしても重要なセリフと思いますが、プレビュー2日目では、同シーンで間男を演じるマイクの本物の勃起のほうが話題となります(ネット上で5万回再生)。終演後「リアリティを大切にしている」マイクから小道具の銃の嘘くささ(銃口に栓がしてある)を指摘され、リーガンは “本物であること” について再び考えます。

マイクは私生活では半年もの間、勃起不全であり、サムに尋ねられて「俺は舞台ならなんだってできる」と答えます。別の場面でも「フリじゃないと言ったろ。舞台だけは自分を出すんだ」と言っています。リアルな生活においては、役者でさえも、自分ではない自分を生きていることを示唆しています。つまり自分(本物)を生きるために、別の誰かや何かを演じる必要があるということですよね?

舞台のプレビューは「芝居のテーマを理解するために行うもの」(舞台俳優マイク)だそうです。演じることで理解が及ぶことがいろいろある、ということです。

プレビュー3日目(最終日)。娘サムと生意気俳優マイクがキスしているのを舞台の袖から目撃するリーガン。気持ちを落ち着かせようとガウン姿でタバコを吸いに楽屋口へ出ます。そしてガウンを扉に挟まれ身動きが取れなくなります。やむを得ずガウンを脱いだブリーフ姿でブロードウェイの雑踏を歩き、劇場へ客席側から入って芝居を続けることに。身ひとつでの勝負です。ブリーフ姿で通りを歩くリーガン・トムソンの動画は2時間で120万回再生。マイクの勃起動画に勝利しました。

名優も実生活では “下手な役者”。そこに苦悩がある

リーガンにとっての悲惨なプレビュー3日間が終わった夜、娘のサムから、薬物中毒のリハビリ施設で行っていたワークについて聴きます。「地球が誕生してからの60億年」「人間が誕生してからの15万年」「自分たち人間のエゴ、執着のちっぽけさ」について。リーガンはサムへ「ひどい父親だった」と言います。サムは返します。「そこそこよ」と。

その後、彼はバーへ行き、ニューヨークタイムズの演劇批評家タビサの辛辣な指摘に抗戦します。リーガンがすべてを賭けた「愛について語るときに我々の語ること」は、彼女の筆の力で打ち切りとなることがほぼ確実に。バーからの帰り道、ある者が通りで喚いている言葉が身に沁みます。

・・明日が来て、明日が去り、また明日が来る・・昨日という名のすべての日々が照らしてきた愚か者たちが死に至る道・・人生は歩き回る影、下手な役者だ。舞台でいばってはため息をつき、出番が終われば消えてしまう。人生は物語。その語り手は愚か者なのだ・・

役者志望がゆきずりの自己アピールを行うシーンなのですが、通り過ぎるリーガンに「どこへ行く?やりすぎか?演技の幅を見せた。大袈裟だったよ。やりすぎた」というセリフは、誰かに対してアピールするために、意図的にやり過ぎてしまう私たち人間の姿を見せているように感じました。

プレビューを終えての舞台初日の朝、リーガンはバードマン(内なる声)に起こされます。路上で寝てしまったようで二日酔いです。

バードマンは「空高く舞い上がれ。お前は重力にも勝てる。劇場に戻って、俺たちのやり方で派手に幕を閉じるんだ。炎に向かって飛べ。お前はバードマンだ。お前の居場所は空だ。そこから連中を見下ろせ」という趣旨のことをリーガンに告げます。

芝居の評価は上々。別れた妻が幕間に楽屋を訪れ、彼の演技を称えます。彼女とのひとときが、過去の過ちの受け入れにつながり、リーガンは愛を伝えて謝罪します。「一緒に」「そのときを」大切にすべきだったのに俺は間違えた、と。

初日の公演は大成功に終わりそうです。元妻は客席へ戻り、リーガンは実弾を込めた銃をもって再び舞台へと向かいます。芝居の最後はスタンディングオベーションが続きます。批評家タビサは席を早々に立ち、新聞に「無知がもたらす予期せぬ奇跡」という見出しの記事を書きます。

リーガンが再び “バードマン” になったのはいつ?

火の玉が再び空を駆け抜けます。←(A)

彼を支えてきたプロデューサーのジェイクは「新しい人生の始まりだ。未来が見える」と、命を取り留めたリーガンに言います。リーガンの無事を祈るファンたちのニュースを示します。舞台での一件を自殺未遂と捉える人たちもいます。

娘のサムはライラックの花を持参して病室へ。横たわるリーガンの胸に身体を寄せます。別れた妻に語った「一緒に」「そのときを」大切にするリーガン。

サムが花瓶を取りに行っている間にトイレへ行くと、そこには便器に腰かけているバードマンの姿がありました。「お別れだ。クソ野郎」とつぶやくリーガン。窓の外に鳥の群れを見て、懐かしい家族を見つけたような表情になります。彼は窓から外に出ます。←(B)

病室へ戻ると父の姿が見当たらず、窓が開いたままになっていることに気付いたサムは、驚いて階下を見ますが、その後空を見上げて微笑みます。

さて、リーガンが地上を去ったのは(A)と(B)、どちらの時点でしょうか。(A)のほうが時系列で(B)より必ず先とは限らないので何とも言えませんが、少なくとも(A)の時点で、リーガンの人生に関する何かが完了していたと私は思います。空の火の玉は、内なる声のバードマンが不要となったことを示しているのではないでしようか。「内なる声」を伝えるためにやってきて、役割を果たしたのでリーガンから離れていったのだと思います。

冒頭の画面に映し出されるタイピングが、恐らくは、この映画の根底にあるテーマでしょう。以下のような内容です。

この人生で望みを果たせたのか?

― 果たせたとも

君は何を望んだのだ?

― “愛される者” と呼ばれ 愛されてると感じること

レイモンド・カーヴァー

「“愛される者” と呼ばれ、愛されてると感じること」が果たされたならば、リーガンの生きる目的(すなわち芝居のテーマ)が完了したことになります。だとするならば、サムが病室へやってくるところまでをリアルな人生として体験しなければなりません。したがって(B)の時点までリーガンは生きていたと思いますが、実弾入りの銃で自殺のシーンを演じることを決めたのは、元の妻との語らいの後なので、彼としては既に十分に満足していたのかもしれません。

娘のサムが、まずは階下を見て、その後空を見上げたのは、父リーガンが求めていたものを、彼女も暗黙のうちに了解していたからでは。そして窓の外の鳥の群れに気付き、そこに父(バードマン)の姿を見たのだと思います。

バードマンは何を言いたかったのか

バードマンは何を伝えたくて、リーガンに語り掛けていたのでしようか。おおよそのところは想像がつきます。

内なる声が伝えたかったこと
  • 俺(バードマン)は、お前自身(リーガン)の声だ → リーガンの顕在意識よりも上位の意識が、人生の愚かな語り手リーガンを助けにきたよ
  • 俺たちには本物の才能がある。低レベルの現状に甘んずるな。ここはシケた劇場だ → 人生は歩き回る影で、お前は表面的なことに翻弄されている。それでは人生の望みに到達できない
  • 俺たちは、かつてすべてを手に入れた。その後、すべてを手放すことになったが、お前(リーガン)は怒りが消えていないようだ → 人生の望みや目的はもっと普遍的なことだ。鷹の目をもて
  • 演劇界で芸術家を目指しても無理だ。映画(「バードマン」)の時代は無知だったが輝いていた。お前が望めばバードマンに戻ることができる → 無知でいいんだよ。必要なのは、自分の望みに気付き、それを進んで行うことだ
  • お前(リーガン)は本当はバードマンだ。ただのリーガンである限り、過去の栄光にしがみつく三流役者だ → 三流役者リーガンなんてちっぽけな存在は捨てて、羽ばたくバードマンになって望みを手に入れろ。そのために生まれてきたんだろ

舞台俳優マイクがサムへ語ったことを鑑みても「リアルな人生を生きているからといって、それが自分自身というわけではない。現実世界が無理ならば、虚構の世界で解き放たれた自己を表現したいのが人間だ。なぜならば、隠された生きる目的を達成したいという気持ちは何よりも強い動機であるからだ」ということを表現した映画だと思います。

リアルが嘘で虚構が真実で、真実を手に入れるために虚構を求める。人生とはパラドックス。身につまされるテーマでもあります。

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