3月13日にNetflixにて公開後、大絶賛されている作品。原題の “Adolescence” は “思春期” という意味です。
ドラマの組み立て
物語の筋書き自体はシンプル。実話をベースとしている説、していない説、両方あります。
【あらすじ】
- とある早朝、13歳の少年ジェイミー・ミラーが、同級生の女の子ケイティ・レナードを殺害した容疑によって自宅で身柄を拘束される。ジェイミーの父エディ、母マンダ、姉リサは彼がそのような重大な犯罪を犯したと聞いて驚きを禁じ得ない
- ジェイミーと同じ中学校に息子アダムが在籍しているバスコム警部、同僚のフランク巡査部長は情報を求めて学校を訪れる。教育現場は荒れており、大人の感覚は空回り。生徒たちの真実からかなりズレていることを痛感する
- 少年の精神状態を鑑定するため、心理療法士ブリオニー・アリストンが収容訓練施設を訪れる。彼の精神活動、情動の傾向がやりとりを通じて明らかになっていく
- 一方、ジェイミーの家族は地域からの嫌がらせに屈することなく、互いに思い合う、よい家族であろうとする。しかし「善くあろう」という努力が別の苦しみを生むこととなり、父エディは自身の無力を認めることとなる
この作品が高い評価を得ているのは、ざっくり言って以下のような理由によるものと思われます。
私自身はジェイミーの父エディ役のステファン・グラハムをもともと高く評価していたため、視聴動機も彼の出演によるところが大きかったのですが、多数の指摘にあるようにジェイミー役のオーウェン・クーパーは素晴らしく、特にエピソード3は彼でなければ、あのように演じ切ることは困難だったろうと感じました。
ドラマや映画は物語の順序通りに撮影されるわけでないのは当然のこととして、エピソード1~4のうち、最初に撮影されたのは特に評価の高いエピソード3であり、このドラマがデビュー作となるオーウェン・クーパーにとっての初仕事だったようです。エピソード3におけるジェイミーと心理療法士ブリオニーの対話には、取調室での攻防で魅せるドラマシリーズ「クリミナル」を連想させる心理戦の要素も感じられました。
カメラの長回しは撮影部隊、俳優たちのレベルや息が合っていないと納得のいく出来にならないと思います。個人的には舞台劇に近いものとして観ていました。
各エピソードのポイント
それぞれのエピソードから伝わってきたことをまとめておきます。
エピソード1
ストーリー要約
銃を構えた警察の部隊がミラー家に踏み込み、殺人の容疑者として13歳のジェイミーが逮捕されるところから始まります。警察では少年という意味では優しく、しかし大人と同じ手順で扱われ、父エディが「適切な大人」として同席して取り調べを受けます。防犯カメラに記録されたジェイミーと被害者ケイティの映像を見せられますが、ジェイミーは殺害を否認します。
感じたこと:流れ作業のような大人の世界
事件を担当するルーク・バスコム警部とミシャ・フランク巡査部長、ジェイミーを担当する当番弁護士のポール・バーロウなど、登場する大人がことごとく慣れた手順に則ってサクサク行動し、会話や説明のテンポも速いのが特徴です。
大人の世界が流れ作業のように、段取りとスピードを基準として営まれていることを表しています。大人ならではの経験に基づく洞察はあるのでしょうが、どこか表面的。大人が疑問をもたずに乗っかっている軌道と少年ジェイミーのリズムが調和していないことが伝わってきます。
父エディ、母マンダ、姉リサは労働者階級の特に問題のない家族に見えます。
エピソード2
ストーリー要約
バスコム警部とフランク巡査部長はジェイミーの学校へ聞き込みに出向きます。同校にはバスコム警部の息子アダムも在籍しています。
警部と巡査部長は教師の話を聴き、各クラスを回って生徒たちからの情報提供を訴えますが、反応は芳しくありません。生徒の素行や言動にはイラつきが目立ち、現場の教師はやる気がないか、熱意が空回りしているかのどちらかです。生徒たちは教師を信じていません。ジェイミーの友人、ライアン・コワルスカとトミーは警察の来訪に動揺します。
警部と息子アダムの関係性は近しいものではありませんでしたが、生徒たちの文化や流儀に寄り添えず、的外れな父を痛々しく思ったアダムは、ジェイミーのインスタグラムに対するケイティのコメントについて解説。何の問題もなさそうなSNS上のやりとりを通じて、ジェイミーへのイジメが繰り広げられていたことをバスコム警部は知ります。
感じたこと:幾層もの分断
イギリスの学校は荒れており、イジメも日本の比ではないと聞きますが、ジェイミーらの中学校も生徒たちの気持ちがささくれ立っています。生徒たちには品がなく、弱い者を侮辱し、気に食わない人物に暴力も辞さないのは社会のあり方のせいなのか、学校教育のいたらなさなのか、家庭の躾のせいなのかはわかりません。
学校の先生たちもバスコム警部も基本的には善人で生徒らと対話を試みますが、若い世代にとってピンとこない相手らしく相互理解に至りません。生徒同士ならば分かり合えるのかというとそうでもなく、若者は若者で分断され、互いを傷つけあっています。
アダムは父バスコム警部にSNSでの若者のコミュニケーションをいかに読み取るかを教えます。大人は自分たちの価値基準と行動様式で若い人たちを解釈しようとしますが、世代間の文化的断絶に気づいていません。そして自分たちのペースで結論を得ようとします。
エピソード3
ストーリー要約
事件から7カ月が経過。心理療法士のブリオニーが収容訓練施設にいるジェイミーを訪れます。彼女は既に何回か彼を訪問しており、多少の打ち解けた空気があります。
ブリオニーは父や祖父の性格、彼らとの関係から「自分が男であることについてどう思うか?」という話題へ導きます。対話の中途でジェイミーは「刑務所ではなく精神病院のような所に入れられている」ことへの不満を露わにし、着席を指示するブリオニーに怒りを爆発させます。なにがしかのトリガーが引かれるとジェイミーは自分を抑えられなくなるようです。
中座して部屋へ戻ったブリオニーは、ジェイミーが女の子、特にケイティに対してどう感じ、どう行動していたのかを尋ねます。ジェイミーは自分自身について「醜いから女の子から興味をもたれない」と語ります。そして二度目の激昂。ジェイミーは心理療法士のなかに何かを投影し、投影に基づく優越的支配性に対して不快感を露わにします。
そして話題はSNS(アカウントをもつ理由/投稿する理由など)へと移り、ケイティのコメントについてジェイミーがどう感じていたかを尋ねます。ジェイミーは性的なからかいを仕掛けてきたケイティへの抑圧した複雑な思いを垣間見せますが、殺害については頑なに否定します。ブリオニーはある段階で専門家としての結論を出し、この訪問が最後になることをジェイミーに告げます。彼は動揺し「先生は僕のことが好き?少しは好き?」と三度目の激昂。スタッフによって強制的に退室させられます。仕事とはいえ、ブリオニーの心は揺れます。
感じたこと:父親は息子にとってのスタンダード
ジェイミーがケイティを殺したかどうかについては、エピソード1の段階でおおよそ答えが出ています。ゆえに彼の精神状態を鑑定するために、心理療法士ブリオニーが出向いたわけです(複数の専門家が鑑定するようですね)。
ジェイミーはアタマの回転が速く、平常時は普通の少年なので、彼の語る内容には一定の整合性が認められます。ブリオニーは “父性” “男性性” から彼の深淵に切り込み、彼の爆発的な怒りを引き出します。父エディにも怒りが爆発するとモノを破壊したりする傾向があり、そういった遺伝的/環境的性向は息子に引き継がれたと考えられます。
そしてジェイミーの、エピソード1で「適切な大人」として父を指名、エピソード3の面談で父について触れたときの「その話はもういい」という態度、強制退室の際に口にした「パパに元気だと伝えて」という言葉。ジェイミーにとって父エディは精神面での重石であると同時に希望なのだと感じました。父親のことが好きだったかどうかはわかりませんが、息子にとってはよくも悪くも心理的に絆を断つことが難しいスタンダード(出発点であり実現可能性の高いゴール)だったのではないでしょうか。ただし似た性質をもっていたとしても父エディは人を殺してはいません。一方で息子は同級生を殺すことになった、その違いを分けるものは何だったのでしょうか。
ジェイミーは自分のことを「醜い」と思い込んでいました。そういう思春期の子どもは世の中に多数いそうなものですが、SNS文化に代表される表面的なつながりと裏のコミュニケーション、ルッキズムの蔓延が彼の深淵をさらに深いものにしていたようにも思います。
エピソード4
ストーリー要約
ジェイミー不在のミラー家では父エディの誕生日を迎えていました。彼ら3人(ジェイミーの父・母・姉)もセラピスト(ジェニー)からのアドバイスを得ているようで、目の前のことに集中し、大切にすべきことを大切にし、物事のよい面を見るようにして生活を送っています。
3人の関係は悪くなく、世間からの風当たりが強いこともあって互いを支え合って暮らしています。しかし車に “小児性愛者(ノンス)” といたずら書きされたことを発端に、父エディの怒りが大爆発。楽しい一日になるはずだったミラー家の人たちは、つらい涙を流すことになります。そしてジェイミーからエディに「裁判で殺人を認めることにした」という電話が入ります。
父エディと母マンダは過去を振り返り、防犯カメラ映像に記録されていた息子ジェイミーの犯行について言及します。「殺したのは僕じゃない」というジェイミーの言葉を父親は尊重してきました(凶器は見つかっていなかったものの殺したことは明白だったと思われます)。近く行われる裁判で自らの罪を認めることにしたジェイミーは心変わりの理由を電話で語ることはありませんでした。
ミラー家は、いつ、何を、どのようにしていたら、過去の悲惨な出来事を回避できたのでしょうか。
感じたこと:正常と異常を分ける一線には個人差がある
“正常と思われている人” が “異常とされること” をしでかすときに越える一線。それは人によって異なります。
一般論でいえば耐性のある人は越える一線(=限界)のレベル設定が高く、そうでない人は低く、前者は “よりマトモ”、後者は “よりイカれている” とみなされます。ただし各トリガーに対する脆弱性はそれぞれで(外見/社会的成功/人格など、人により触れられて反応するコンプレックスが異なる)、厚みのある一線ならば刺激されても “タガが外れにくく”、薄ければ “著しく傷つく/激高する” 傾向にあります。
「あんなに温厚な人が」「虫も殺さないタイプだったのに」というのは、普段の限界のレベル設定が高いにも関わらず、劣等感が強く自己肯定感の低い領域の脆弱性が攻撃されたことで生じる現象と思われます。
何に対してコンプレックスやこだわりがあるかは、他者の目にも比較的わかりやすい部分ではあるのですが、どの程度それを刺激したら取返しのつかないことになるかは他者から見えづらい面があります。
- 思春期の女の子の鈍感な残酷さによってジェイミーの一線が壊された
- ジェイミーの異常性を確認するためにブリオニーは彼の一線を破壊した
- 事件後も善き人として後ろめたいところのない人生を送ろうと心がけていた父エディは、世の中からの逆風によるストレスで一線を越えそうになる(彼は問題行動にいたるが人殺しまではしていない)
意図的に、あるいは無意識に抑圧してきた心の傷と、外の世界に向けた “傷などないかのような自分” の間にある一線、それが正常と異常の境目であり、その人の葛藤のありどころ(=戦場)なのだと思います。
それは個人の内面にあり、家族のなかにも社会にもあります。散々な体験をしたホームセンターから帰宅したミラー夫妻が語り合うシーンからは、夫婦であっても、互いに理解しようと努力し体裁よく振舞っていても、埋まらない溝があることが伝わってきます。
「問題のない家庭は存在しない」と私は常々思っていて、このドラマの内容はそれと矛盾していません。家族や親子は血のつながりのある運命共同体で似ているところがありながら、それぞれが異なった質をもっています。問題を最小化するには、悪しき傾向を次世代にもち越さないためにはどうしたらいいのか、結果から遡っての不正解はわかっても、未来に向けて唯一絶対の正解が見つからないことが伝わってきて、心痛むところのあるドラマでした。
なお、エンディングで歌っているのはケイティ役の少女だそうです。