事実に基づきホロコーストを分析するドキュメンタリー映画「普通の人びと:彼らを駆り立てる狂気」

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“思想によって選別されていない、ナチスの洗脳も受けていないドイツの普通の人びと500人” が第101警察予備大隊として8万3000人のユダヤ人を殺害したケース(内訳:3万8000人⇒銃撃、4万5000人⇒絶滅収容所)を土台に「人間は個人的な動機や心理的な動機がなくても人殺しができる」ことについて考察したドキュメンタリー映画。原題は “ORDINARY MEN The “Forgotten Holocaust”” です。

「130以上の警察大隊があるなかで、ごく普通の人々から編成された第101警察予備大隊が殺人率第4位となったのはなぜ?」という疑問を解き明かしていきます。分析や考察について目新しいところはなく、日本人ならば了解的に腑に落ちる内容なのですが、テーマに普遍性があり、事実や記録をひとつひとつ調査・検討して構築されているところに意味があると思われます。

そして自分自身をよくよく考察し、自分を第101警察予備大隊の部隊員に置き換えたとき、どのような選択をするか。その答えこそが重要なのだと考えます。

解説者として社会学者シュテファン・キュール氏、社会心理学者ハラルト・ヴェルツァー氏などが登場。ところどころに出てくる歴史学者のひとり、クリストファー・R・ブラウニング氏の著書「普通の人びと:ホロコーストと第101警察予備大隊」をベースに映画が組み立てられているのかもしれません。

第101警察予備大隊の人たち

【第101警察予備大隊とは】

  • [普通の人たち]1942年にハンブルグで募集された。運転手、配管工や大工、パン職人、商人や事務職など平凡な職業の人たち500人が集まった。予備大隊なので予備警察官という位置づけ。軍事的な訓練が不十分な人たちだった。戦時の人手不足を補う意味もあった
  • [ナチスの洗脳を受けていない]彼らは数ある警察大隊のなかでもナチス支持者ではなく、ユダヤ人に敵意を抱いてもいなかった。生まれや育ちに社会民主主義的な背景をもつ者が多かった
  • [隠された特別任務があった]ドイツの征服先(ポーランド)でドイツの規則を守らせるのが公表されていた任務。知らされていなかった特別任務は「大勢の民間ユダヤ人を至近距離から銃で撃つこと」
  • [自由意思が保証されていた]特別任務については強制されていたわけではなく拒否も可能だった。特別任務を拒否した場合、評価は悪くなるかもしれないが厳しい罰則はなかった。自分の意思で特別任務から外れた人たちもいる
  • [指揮官は独裁者ではなかった]大隊を束ねていたのはウィルヘルム・トラップ少佐。部隊員から「パパ」と呼ばれ慕われていた。人情味のあるタイプで「ユダヤ人男性、女性や子どもを射殺する」「気が進まない者は任務から外れてもいい」と言った

上記のような “普通の人びと” が大量殺人をなぜ犯したか、小難しく解説してもらわなくても日本で暮らす人ならわかります。映画のなかでは「社会的制裁に耐えられなかったからだ」と言っています。部隊内部の空気や圧力に負けたドイツ人が多かったということです。所属するグループ、そしてグループが属する世の中のムードに負けたのです。

自由意思により射殺の任務から外れたとしても、部隊の一員として寝起きを共にすることに変わりはありません。仲間から「臆病者」「ろくでなし」と嘲笑・軽蔑されるくらいだったら任務を受け入れることを選択した人が多かったようです。「非国民」と呼ばれるわけにはいかなかった戦時中の日本人と似ています。

アインザッツグルッペン裁判

これといった罪のない民間人を至近距離で撃つ任務はストレスが多大です。心身の健康を損なう隊員も少なくなかったため、殺人の効率向上と関わる人たちの罪悪感低減のためにアウシュヴィッツなどの絶滅収容所が作られていったという経緯があるようです。

この映画では第101警察予備大隊のほかに、アインザッツグルッペンの動きについても触れています。

[アインザッツグルッペンとは]

ドイツの警察と親衛隊から構成される部隊で、ドイツ国防軍の前線の後方で「敵性分子」(特にユダヤ人)を銃殺することを目的として組織された

第二次世界大戦の戦勝国が敗戦国を裁いたもののひとつ、ニュルンベルク裁判で法務チームに所属、アインザッツグルッペン裁判では検事総長を務めたベンジャミン・フェレンツ氏。彼は親衛隊中尉でアインザッツグルッペンD隊指揮官だったオットー・オーレンドルフ被告の印象、絞首刑を宣告された後の彼の様子について語っています。オットーは600人に指令を出して1年で9万人のユダヤ人を殺害。彼自身は5人の子どもの父親で、自分が魅力的な男性であることを自覚している人間でした。

なお、ベンジャミン・フェレンツ氏はハンガリー系ユダヤ人。生まれたのはハンガリー(のちにルーマニア領となる)。迫害を避けるためにアメリカへ移住。個人の戦争犯罪を裁く国際刑事裁判所(ICC)の設立にも尽力。2023年4月、103歳で亡くなりました。

歴史学者ヒラリー・アール氏によれば「ソ連の共産主義はユダヤ人の責任」というプロパガンダをオットーは信じていたそうです。だとすれば洗脳されていたことになりますが「そう信じていないと/そういうことにしておいてもらわないとやっていられない」という面もあったのでは。頑なに、ものの見方を変えないという態度も自分を守るひとつのやり方です。

誇り高い選択と尊厳ある人生とは

歴史学者のシュテファン・クレンプ氏は、第101警察予備大隊で起きたことの鍵になるのは「強制と自由の組み合わせだ」と述べています。銃殺を強要されたわけでもないのに、ほとんどの部隊員は参加しました。「やらないという選択もできるが、犠牲となって銃殺に加わる仲間のことを理解せよ」というのが指揮官の論調だったことも影響したようです。

「やれ」と強要されると反発を覚えるものですが「どちらでもよい。自分で決めよ。でも、やらない人たちの分の汚れ仕事を引き受ける人たちのことも考えよ」と言われると人の心は揺れます。自由を与えられることによって、社会(集団)と個人の間で揺らぐのです。

「自分は銃殺に参加しない」という態度を貫くには、信念と自分の選択への信頼が必要です。

特別任務の日になると体調を崩して作戦に参加できなくなる人、新婚で新妻を伴って占領地入りし妻に虐殺やゲットーの浄化を見せる人(彼の名はヴォーラウフ)など、いろいろいたようです。ヴォーラウフは上官であったため、妻の帯同が許可されました。後年の裁判では居心地が悪いのか、被告人席でひとりサングラスをかけて腰かけていました。彼は有罪になりました。

歴史家のクリストファー・R・ブロウニング氏によれば、第101警察予備大隊メンバーの選択や適応の仕方は3つ。

①人殺しを楽しむようになり、残虐性が増していく

②ルーティンに対して従順になる。だたし率先したアクションを見せることはない

③特別任務を拒否する

社会心理学者ハラルト・ヴェルツァー氏やベンジャミン・フェレンツ元検事総長は、精神的に混乱する状況下で正気を保つために人間が採るやり方として3つを挙げています。

①「これ(民間人の銃殺)を行うことには正当な理由がある/道徳的な正しさがある」と自分に信じ込ませる

②「命令を受け入れる自分たちもまた、戦争や国家の犠牲者である」と位置付ける

③「自分は歯車のひとつに過ぎない。意思決定していないので行為に責任はない」と思い込む

最近では変化してきているのかもしれませんが、社畜性の高い日本の企業戦士なども「社命なら」と意に沿わない指示を受け入れてきたのではないでしょうか。そんなとき、自分のなかにあるモヤモヤを解消する手段もおおよそ上記と同じと思われます。

このドキュメンタリー映画の題材はドイツです。しかし日本にも当てはまることがたくさんあります。組織のなかで個人が意思決定を行うとき、後の自分にとって後ろめたいところがないことの重要性、尊厳のある生を創るのは自分自身のひとつひとつの選択であることを再認識する映画です。作品の根底には普遍性的な問いかけがあるように感じました。

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