カナダから帰ってきました!帰りの機内で「ベン・ハー(2016年版)」を3回見ました。ストーリーの呑み込みが悪いので、何回か見ないと、どういう映画なのかが分かりません(特に洋画)。
私の見た「ベン・ハー」は、機内視聴向けに編集されていて、特定の宗教を礼賛しているかのようなテイストについては削ぎ落しているようです。イエス・キリストも登場しないし、残虐シーンの一部もカットされています。
「ベン・ハー」を出発点とし「人間の成長」について語ることにします(一部ネタバレあり)。
ジュダ・ベン・ハーはユダヤの貴族の息子。メッサラはローマ人の孤児で、ベン・ハーさんの家に引き取られました。ジュダとメッサラは義理の兄弟という間柄。
ジュダは何の不自由もない豊かさのなか愛に恵まれて育ってきた人なので屈託がなく、人道的で慈愛に満ちています。ひねくれた反応や解釈を一切しません。
ローマ人孤児出身のメッサラは、生家の汚名(祖父がジュリアス・シーザーを裏切って処刑された)を恥じておりまして、ひとかどの男になるために、息子として遇してくれていたベン・ハーの家を自らの意思で去りローマの志願兵となります。戦地から戦地へと渡り歩き、何万人単位で敵や民を殺戮していきます。
「お金なんて幸せとは関係ない」「争いは憎しみと不幸しか生まない」とか美しいことを何の疑いも持たずに言い放ち「生きていくにあたり、苦労もなければ、働く必要もない大富豪のお前が言うな!」と言いたくなるところが無きにしもあらずのお坊ちゃまジュダさん。
家系の(血に流れる)汚名、孤児という立場などから請け負ってきた影やコンプレックスを克服したいメッサラさん。
このふたりは、メッサラが軍功を上げたローマの兵士としてエルサレムに帰ってくるまでは、血のつながった兄弟以上に仲良しでした。
いろいろありましてふたりは敵対関係となり、ボンボンだったジュダは5年間、奴隷として船の漕ぎ手という苦役を務めることになりますが、奇跡的にエルサレムへと戻り、ふたりは戦車レースでそれぞれユダヤ代表、不滅のローマ代表として戦うことになります。
ジュダが驚異の底力で勝ち、メッサラは大けがを負います。
敗者メッサラはジュダに悪態をつき「必ずお前を殺す!」と剣をサヤから出して威嚇するのですが、ジュダはひるまず「これ以上憎しみあいたくない。もうこれ以上戦えない。覚えているか、昔俺が落馬して大けがをしたとき、お前がひとりで俺を運んでくれたことを。今度は俺がお前を運ぶ」とメッサラを抱きかかえようとします。
すると、それを待っていたかのようにメッサラもジュダを強く抱きしめます。涙を流し、互いに赦しを乞います。
説明が長くなり、機内放送バージョンではありますがネタバレも若干含みました<(_ _)>
この人たち、確かに散々な目に遭ってきてはおりますが、ならば最初から最後まで何事もなく美味しいものを食べ、彼らの神の祭りで楽しく踊り、幸せに暮らしているだけのほうがよかったんでしょうか?
ジュダは元々愛に溢れた人。高潔であり、勇気もあります。メッサラも高潔で勇気のある精神性をもった人と感じます。
しかし「自分に流れている血の汚名を挽回して、ひとかどの男になりたい」と自らに思わしめる成育歴からくるコンプレックス、先祖から引き継いだ負の遺産があるため、それらの解放と昇華のため兵士となり過酷な戦場で生き抜き、誇りと名誉を獲得/回復する必要がありました。あくまでも彼のなかにだけあるニーズですが、それが彼を突き動かしています。
それらがなければ、志願して兵士になり、過酷極まる戦場に赴くという選択をあえてすることはなかったでしょう。しかしメッサラはローマ兵士になり、生きるか死ぬかの戦地を歴戦し義兄弟であるジュダとは敵対して一騎打ち。
互いに憎しみをバネに生死をかけて徹底的にやり切ったところで、大いなる赦しと奇跡が起きる。それでよかったようにも思うのです(かつてのふたりが、強い信頼で結ばれていたという前提あってこそ、という側面はあります)。
そこにはジュダによる「すべてを明け渡した愛」という触媒が必須であり、それがなければ展開がまったく違うものとなっていたことは確かなので、あくまでも“結果オーライ” ということです。
社会や政治の制約の大きさ、犯してきた罪の重さ、消えることのない憎しみ、そのなかで自分を「やりきる」。「悪人正機説」というのが仏教にもありますけれど、背負う罪が大きければ大きいほど、一旦明け渡しが起きれば、赦しもその瞬間に莫大な規模で起こる。そんな印象を残した映画でした。