原作であるカミュの短編小説のタイトルは「客」。映画の原題は「Loin des hommes」であり、直訳すると「男性からは程遠い」。そして邦題は「涙するまで、生きる」。「客」⇒「男性からは程遠い」⇒「涙するまで、生きる」と変更が加わっています。ちなみに英語のタイトルは「FAR FROM MEN」です。
「涙するまで、生きる」とは、何と素っ頓狂な作品名なのだろう、と思いましたが、久しぶりにヴィゴ・モーテンセンの出演映画を観てもよいかも、ということで視聴。
自慢になりませんが、カミュの作品を読んだことがありません。自身の勉強を兼ねて、彼と作風を調べてみました。
カミュの作風も、アルジェリアのレジスタンス運動についても詳しく知っているわけではありませんので、そこを出発点とした深い感想はありません。しかし映画を観て、個人的な視点から感ずるところはありました。
それは「教育とは “選択の視点” をもつことを啓蒙し、“選択の自由” を行使することを促し、“自己責任の立場から他者を受け入れる姿勢” を育てることなのだなあ」というものです。 ダリュは街から離れた、岩と石からなる山間で先住民の子どもたちに読み書きや地理・歴史を教えていました。フランス領アルジェリアの大人社会から距離を置き、子どもの未来へ希望をつなごうとしていたように見えます。
自問自答してみます。
“選択の視点” とは何から生まれるものでしょうか?⇒ ①先入観なく世界を眺めることのできる、自分自身のポジションの確立から
“選択の自由” とは何から生まれるものでしょうか?⇒ ②自分の世界の中心にあるのは常に自分、自分の世界を作るのも自分であることの自覚から
“自己責任の立場から他者を受け入れる姿勢” とは何から生まれるものでしょうか?⇒ ③他者が自分にとって好ましくない選択をしたとしても、それを受け入れて自分自身の選択を行う態度から
恐らく上記①~③には “明晰な理性を保ったまま世界に対峙するときに現れる不合理性” がもれなく付いてきて、それがカミュの世界観における「不条理」の一部だったのでは、と思います。
①~③の獲得プロセスには “アイデンティティの確立” が不可欠となります。“アイデンティティ” は “エゴ” や “属性(性・年代・職業・国籍など)” とは異なる概念で “自身が安定していられる視座” という意味を含みます。
教師ダリュの両親はスペイン人、ダリュはアルジェリアで生まれ、アラブ人からは「フランス人」、フランス人からは「アラブ人」と言われ、拠り所となる集団がありませんでした。出自に関して基盤をもたない人物が、揺るぎない自己を獲得/保持するには、盲目を切り裂いて世界を差し出すような教育や叡智が必要です。それをダリュは理解していたので、軍人を辞めて先住民の子どもたちの教師になったのではと私は推測します。
ダリュは教師でしたが、先住民の子どもだけでなく、モハメドの世界観やアイデンティティにも刺激を与えます(モハメドのアラブ的世界観もダリュに刺激を与え、ふたりの間には信頼感が醸成されていきます)。山道が互いの啓発の場になりました。
岩と石の山を歩いていくロードムービーで、視覚的変化に乏しいため、途中で退屈することがあるかもしれません。しかし人生が変わることに、たくさんの時間は要らないということを教えてくれます。
また狭義での教育には無関係ですが、心地良い過去の記憶は五感と結びついていることに共感しました。
人生の何かの瞬間に目と心が啓かれることがあり、そういう機会はとても貴重、そんなふうに感じた映画でした。
[ロケ地]モロッコ