“Envy”(妬み・うらやみ)
「冷淡だった俺が人を信じられるのは、あなたのおかげだ。あなただけが俺を見てくれた。無価値だった俺に手を差し伸べ価値を与えてくれた。言葉ではなく行動で俺を導いてくれた。だけどあの時、無視された気がした。ウソは言ってないのに」
(ラダリウス/ナバロOB)
「家族のような絆」「信頼と承認で結ばれた間柄」であるとしても、国内のトップアスリートが集まったチアチームは、チーム内にもライバルが多く競争が熾烈です。
ほかのメンバーのほうがコーチたちから愛を受けていると感じると、彼らが自分にとって魅力的な存在であればあるほど、求心力が強ければ強いほど、疎外感や嫉妬の感情を抱きます。
ラダリウスは個性が強く、素晴らしい才能をもった選手でしたが、成育歴で負った心の傷と痛みが多いので、母親同然に慕っていたコーチのモニカに退けられたと「感じた」ことをきっかけにナバロを離れます。心がざわつくと、痛みを紛らわすために他者攻撃を開始するのが彼のパターン。ナバロを去ったラダリウスはSNSを通じ、日々モニカ批判を発信するようになります。モニカは誰よりも気にかけてきた教え子の攻撃により、大きな心痛を抱えることになります。ラダリウスの行動のベースにあるのは悲しみと怒り。彼はそれらに耐えきれないので、モニカへの怒りを世の中に向かってアピールし、自分の悲しみの代償を彼女に払わせようとするのです。
またどんな競技もそうですが、補欠・控えの選手たちがいます。特にナバロのような強豪校では、他校に進学していればラクにレギュラーになれるであろう優秀な選手ですら補欠となります。試合に出る機会があるかどうかも分からないのに、ベストな状態を維持しなくてはなりません。
競技マットの外から聞こえてくる、補欠選手のレギュラーに対する批判的論評(悪口雑言ともいう)にコーチたちは手を焼きます。チアはチームスポーツ。私はチアともスポーツとも縁遠い人間ですが、能力が高くても、チームのバランスを考えると補欠になる選手が出てくることは想像に難くありません。あまりにも頭抜けた選手がいたとしたら、その人を核としてほかのメンバーを選抜するかもしれませんが、個人の能力と全体としてのバランス・総合力を勘案して、チームづくりをせねばならないことでしょう。
「俺だったら、もっと素晴らしい演技をするのに」
「自分だって、あれくらいはできるのに」
「なぜ、コーチは私を選ばないのだろう」
「自分の努力は、ずっと報われないのだろうか」
「コーチは、私の努力を評価していない」
そういった思いから、レギュラー選手に対する妬み・うらやましさが生まれ、突破口を得にくいストレスもあって「あの人はここが悪い」「あの状態ならばレギュラーを降りるべきだ」等を口にし、チーム内の批評家になっていきます。それがチームのまとまりを壊し、ムードを悪くします。
チアはチームスポーツで、魅力的な演技をたくさん見せてもらえる一方で競争社会、すごく資本主義的な構造だと思います。チームの勝利に貢献できる人が「価値がある」とジャッジされ、「持たざる者」「価値なき者」は戦場から去るか「無価値感」という心理的ストレスに耐えるほかありません。
人生の早期に親や社会などを頼ることができなかった人たち(アダルトチルドレン云々といいますね)は、魅力ある親代わりの存在を見つけると、その愛を求め過ぎるところがあり、求めているものが得られないと見切りをつけると、その対象への攻撃や強い否定に転じる傾向があります。
「熱狂的な信者 → 猛烈なアンチ」。冒頭のラダリウスは、その顕著な例と感じます。
このドキュメンタリーを見る限りにおいて、トップに上り詰める選手に生い立ちが不遇な人たちが多いのは、この競技を通じて「自分の存在価値を感じたい」「親のような存在から愛を得たい」「集団内で必要とされたい」という気持ちが強いからではないかとも思います。ずっと不遇だったので我慢強い、不幸に慣れている(昔の状況よりはマシと感じられる)からかもしれません。
競技を通じて「自己肯定感」を揺るぎないものにしたり、子どもの頃には不十分だった「承認欲求」を満たしたりできるのは、資本主義的なよさだと思います(そういう人たちは潜在能力を開花させ、人生が明るいものになったので)。勝者がいるということは、一方で敗者がいるわけですから、「価値」を認められないことに大きな欠落感を感じる人が常に存在しています。また「自己肯定感」がなかったり「承認欲求」が満たされなかったりの場合には、いつまで経っても人生に幸せを感じられない構造(骨組み)を素晴らしいと思いません。いつかその構造から自由にならないと、死ぬまで「違うテーマ」で「同じレース」を繰り返すことになります。しかし「直線的な成長(青年期)」から「円の中心から広がりを見せる成熟(大人)」へとシフトするには、資本主義的競争の世界で「自己肯定感」や「承認欲求」がある程度まで満たされる必要があるのかもしれません。
「すごくよかった「チアの女王・シーズン2」何から語ろうか(1)」で
選手に上手に意味を与えられるコーチが優秀なのだなと見ていて感じるし、選手は自分の存在や努力、成果に対してポジティブな意味を与えて欲しいと思っている。特にこの手のスポーツでトップに上り詰めるには、並外れた努力が必要なことは確かで、必要な努力をする原動力が必要なのも確かなのですが、「すること」に対して「意味」を与えられることや、ポジティブなフィードバックを得ることで人生に前向きになることができる、という人間という生き物に特徴的な構造自体に対しては、あまりハッピーなものを感じません。
と書いたのは、そういう意味です。