もうひとつの在イランアメリカ大使館人質事件。ドキュメンタリー「Desert One 大使館人質救出作戦」

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1980年、アメリカ大使館員ら6名をイランから救出させた実話を基にしたのが映画「アルゴ」。一方「Desert One 大使館人質救出作戦」は失敗に終わった “イーグルクロー作戦” を中心に、アメリカ大使館から52名の人質を救出するまでを辿るドキュメンタリー。「アルゴ」の6名救出よりも、こちら52名の人質問題のほうが当時の社会の注目を集めていたのではないでしょうか。かなり見ごたえがありました。

A&E Television Networks, LLC.の提供ですが、イラン人、イラン側の人物も予想以上に多数登場します(割と公平に機会を割いている印象です)。例えば “Desert One” 地点で “イーグルクロー作戦” の失敗やアメリカの敗北を祝う4月25日の記念行事なども紹介されています。アメリカ兵士の焼死体、それらを見せしめにする映像も出てきます。

関係者へのインタビューを編集しただけの手抜きドキュメンタリーが多い昨今において “骨太” の内容です。多角的に取材し資料を集め、分厚い情報を編集して視聴者に委ねる。ドキュメンタリー作品はそうあってほしいものです。

大使館人質事件の概要

重々ご承知の方もいるでしょうが、予備知識として紹介しておきます。

  • 第二次世界大戦後のイランでは、パフラヴィー朝の皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィー(日本ではパーレビ国王と呼ばれることが多かった)が、西側諸国のバックアップを得て開発独裁と親米路線を進めていた。例えば1960年代には、民主的な改革を行い、女性解放の名の下ヒジャブの着用を禁止。婦人参政権を確立。政教分離を図っていた
  • …と書くと民主的で人道的な人物のようであるが、諜報機関SAVAK(ペルシャ語で「国家保安情報部」の略)に指示して拷問や処刑等の恐怖政治を行っていた。SAVAKの創設にはアメリカが協力
  • パーレビ国王はイスラム原理主義者などの反体制派を弾圧。反体制派はイラクやフランスに亡命。その後イラン経済の低迷、貧富の拡大により反体制派(代表的な指導者はホメイニ師)は民衆からの支持を拡大。帝政打倒を目指し、1979年1月にイラン革命が起きる
  • パーレビ元国王は亡命先を転々とした後「ガンの治療」を理由にアメリカへ入国。イラン革命政権は反米の意思を表明。イスラム法学校の学生らが大使館を囲んで抗議デモを開始。その一部が敷地内に侵入して占拠。アメリカ人外交官、海兵隊員、その家族の計52人を人質とし、パーレビ元国王の身柄引き渡しを要求
  • ↑↓の間に映画「アルゴ」の基になったアメリカ大使館員ら6名の救出は完了
  • パーレビ元国王が1980年7月27日にカイロで死去。享年60歳。ガンだったということだが、水面下の工作があったとしてもおかしくない(と私は思う。生きているから何かと面倒なわけで)。5人いた子どものうち2人は後年自殺
  • 大使館を占拠している人たちによって引き渡しを求められていた人物が死んだこと、イラン・イラク戦争の勃発もあり、事件は発生から444日目の1981年1月20日に解決をみる

“イーグルクロー作戦”の失敗

軍事的に人質を奪還することを目的とした作戦の通称は “イーグルクロー”。相当な訓練期間を設け、デルタフォース、海軍、空軍、海兵隊を動員する大規模なものでした。しかし悪天候に加え、機材の故障やトラブルも重なり自損事故的に失敗します。死者8名、負傷者4名。本作では “Desert One(イランのタバスに想定していた着陸地点の通称)” で表現されることが多いです。

撤収にあたってのルールを守らなかったため、放棄されたヘリコプター6機はイラン海軍が入手、そこに残された機密情報もイラン側に流出します。

経験を積んだ優秀なアメリカ軍兵士も多かったはず。 “Desert One” の大きな悲劇が当事者たちやその家族によって語られます。そして作戦の責任者である当時の大統領ジミー・カーター氏、当時の副大統領ウォルター・F・モンデール氏も登場。政治家にとって思い出したくもない敗北の話題と思うのですが、きちんとインタビューに答えているところが素晴らしいと思いました。

アメリカの制作なので、アメリカの軍人がいかに誇り高い存在であるかを伝える国威称揚的なシーンも若干あります。

人質になった人、占拠したイラン人などへの取材

インタビューにはアメリカ国務省に所属し大使館職員だった人たち、大使館で警備を担当していた海兵隊員なども登場し、当時の騒動の様子や人質として過ごした日々を語ります。

片やイラン側、すなわち学生革命家、人質たちを拘束していた女性、英語をよく理解できない学生たちのための通訳者、“Desert One” 付近で米軍に一時的に拘束されたイラン人(当時は少年)からの興味深い証言もあります。

人質解放問題の終結

イラン・イラク戦争が1980年9月22日未明に始まり、イランは国力と国民からの支持の維持が急務となります。パーレビ元国王の死去もあり、イランにとってアメリカ人の人質を拘束し続けることはもはや意味をなさなくなりました。

アメリカが凍結していたイランの資産や利息の返還等について両国が交渉。1981年1月20日に事件は終結します。

現職のジミー・カーターに大統領選で勝利するため、レーガン候補者陣営からイラン革命政府に資金が流れ、同陣営からの依頼によって革命政府が早期解決をせず、敢えて大使館立てこもりを長引かせたという説もあります。

いずれにせよ、国際政治とはいかなるものかを垣間見ることのできる大きな事件でした。

アメリカ大使館人質事件の舞台が一般公開されていた
「アルゴ」として映画化された、イラン・アメリカ大使館人質事件の舞台が一般公開されていました。とても興味深いものでした。
映画「アルゴ」を観た
テヘランの旧アメリカ大使館を見学したので、それを元に映画化した「アルゴ」を観ました。
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