「はじまりのうた」「ONCE ダブリンの街角で」のジョン・カーニー監督による、「シング・ストリート 未来へのうた」。監督自身の自伝的な内容を含んでいます。
先の2作に比較して薄味な感じがするけれど、爽快な青春音楽映画。少年たちが主人公ということもあり、感情移入という面で弱かったのかもしれません。
ダブリン(アイルランド)の男子高校生が、気になる女の子に振り向いてもらうためにバンドを始める、というありがちなストーリー設定、また現実世界にもよくあるパターンが微笑ましいです。彼は家庭の経済状況の悪化、両親の不仲、教師の無理解などの理不尽を体験しながら、少しずつ大人への階段を上っていきます。
注意! この投稿は映画を通して考察する内容なので、ネタバレがあります。
お金がない、現実的なプランもない、でも夢はある、大好きな彼女/彼と一緒。「ふたりで大海原に打って出るんだ」「今でなければいつ行く?」と、映画の最後、小さなボートでアイルランドの港から憧れのロンドンを目指します(なお “ふたりでロンドン” は、デモテープを携え、ガールフレンドと売り込みに行った、アイルランドのビッグネームU2のボノの実話をなぞっているらしいです)。
「若者にとっての憧れの街=ロンドン」という設定を、アイルランドの映画ではしばしば見かけます。アイルランドは失業率が高く仕事がないので、ロンドンで暮らそうと考える人が多かったようですね。
さて、情熱に基づく暴走は若き日々の特権です。
思春期や青春時代には、正体の分からない何かに駆られ、湧き出てくる半端ないエナジーに突き動かされ、大人視点からの道理には合わない、冒険的な行動に出ることがあります。
いくら好きな子と一緒であっても、互いの夢を叶えるためであっても、ボートでアイルランドからロンドンへ行こうとするのは現実離れしているのだけれど、弟に頼まれ「よし来た!さあ行くぞ!」と車で送るお兄さん。「死ぬかもな。でも行け!」と応援する、兄役ジャック・レイナーの演技が素晴らしいのも見所のひとつ。なお、主人公の母親役がマリア・ドイル・ケネディ。「ザ・コミットメンツ」でコーラス隊のひとりを演じていた頃に比べ、身体が倍くらいの横幅になっていたのには驚きました。
大海原に小さなボートで出て行ったふたりのその後は明らかにされていません。最後のシーンはファンタジックな世界観へと突入していきます。
「命を懸けてもいい」と思える対象を持ちやすいのは、若い頃の特徴。情熱があり、純粋に何かを信じることができます。大人たちは眉をひそめるけれど、当人たちは真剣で、壮大なビジョンをもっていたりします。そして夢があることで初めて動き出し、作られていく現実があります。
思春期や青春の狂気や突っ走りは通過儀礼のようなものであり、それを経験済みかそうでないか(それを自分に許してきたかどうか)で、後の人生の豊かさ(と言うよりは “弾力性” や “伸びしろ” かなあ)に違いが生まれる気がします。特にティーンエイジャーの頃の体験のエッセンスはDNAレベルにまで落としこまれると、自分自身を振り返って思います。
青き者、若き者に対しては、多くの社会が寛容です。日本も同じ。
人生においては、自分の意思で「自分」という原石をカット・研磨していくか、それをサポートしてくれる誰かが現れるのを待つかしかないのだけれど、年を取るにつれ、どちらも難しくなっていきます。実際には年齢は関係がないのですが、若い頃と比較すれば「他者には馬鹿げているように見えることを真剣にする」のに、ずっと大きなエネルギーを必要とするようになっていきます。
シンプルに少年(もっと子ども)の冒険を通じた内面の成長物語としては、リバー・フェニックスが出ていた「スタンド・バイ・ミー」のほうが好きで共感するし、普遍的なテーマが表現されていて秀逸と思いますが、「シング・ストリート 未来へのうた」も 感じのよい映画です。
ストーリーは1985年の設定で、私が大学に通っていた時期、バンド活動をしていた時期と被るということもあり、挿入されている当時のロックスター(Duran Duran、Spandau Balletなど)の曲にも郷愁を誘われます。
主人公たちの演奏では、この曲(↓)が一番好き。みんなが同じ振付けやステップで踊るのが、高校1年のとき、1カ月間ホームステイしたイギリスで通ったディスコ(死語?)で流行っていて、そのときを思い出します。映画のこの曲は、アメリカのプロムをモチーフにしているようで、踊りのテイストが若干違います。